スーパーグローバル学部増田准教授

理工系からこのご時世によりによって人社系に文転した大学教員の日記

嘆かわしかった人々

ゴア以来、総得票数で勝りながら選挙人獲得人数では勝てなかったヒラリー。

 

間接選挙で選挙人数の割り当ての問題?といった話も見かけたが、ほとんどの州で総取り方式を取っている以上、接戦になればなるほど死に票も多く、こうした逆転現象は今後もあり得るだろう。

ともあれ、トランプの勝利というよりは、ヒラリーの敗け、と言う表現がふさわしい選挙であった。

 

CNNの投票者属性の分析を見ると、一般の見方とは異なり、トランプよりはヒラリーの方が低所得者層を固めており、トランプは高所得者層や高学歴層にも予想以上に食い込んでいた。

人種別・性別による分布を見ると、圧倒的に指示を固めている層がある一方で、白人女性に限ればむしろ拮抗しているとさえ言える。

実際のところ、女性からの票そのものも、前回のオバマより減らしているというのも興味深い。

投票に行かなかった有権者が多かったことも、ヒラリーも敗けをより強く印象づけている。

 

ヒラリー陣営や高級メディアがこぞって無知で無能で人格に障害のある差別主義者だとこき下ろしていた相手に敗けた。トランプを支持するのは「嘆かわしい人々」だと公言していたわけだが、ほぼ負けが確定した状況でコンセッションスピーチを翌朝に持ち越すなど、往生際の悪さばかりが目立ち、どちらが「嘆かわしい人々」なのかよくわからない展開であった。

もっとも、今思えば、ヒラリー陣営は敗北宣言の原稿をそもそも用意していなかったということなのかもしれないとも思う。

 

逆にトランプの演説のマトモさが際立っていた。抑制が効いた口調で、相変わらず言葉としてはやや品のない表現はあったとはいえ、実に優等生的な内容しか話さなかった。ドルー円相場も、株式市場も、ひとまず安心感を取り戻しているようでもある。

実際にトランプに投票した層の実態からしても、あからさまにトランプを支持していた、いわゆる「嘆かわしい人々」の方が期待を大きく裏切られることになるかもしれない。

 

トランプ当選のせいでヘイトが噴出しているという話もあるが、反トランプ派にも過激な行動に出ている者もおり、いずれにせよ少なくとも法治国家としての対処はされるだろう。そもそもまだしばらくの間はトランプは大統領ではない。

結局、あからさまに排除を掲げたトランプはもちろんのこと、ヒラリーもそのインクルーシブな社会を目指すという主張とは裏腹に、候補者自身がどうであるかはともかく、支持者たちが自分たちと主張を異にする人々に対して排除的であることに変わりはなかった。分断は想像以上だったと語ったが、まさにヒラリー陣営もその分断の加速に加担しており、その自覚も最後までなかった。

 

このような態度は、アメリカでもヨーロッパでも日本でも、リベラル層に共通する欠点だが、まさにこうした姿勢が有権者の離反を招いたとも言える。

 

メルケルがトランプの当選に際して「人種、宗教、ジェンダー、性的あるいは政治的志向のいかんを問わず、民主主義、自由、法の尊重、人類の尊厳の尊重という価値観によって結ばれている」と述べたことを評価する向きも多い。

それは当然重要なことであるが、そうした方々はトランプの過去の発言は決して忘れない一方で、当選を決めた後の演説で、人種や宗教、性別によらず、すべてのアメリカ人の結束を促すと言った不都合な発言には耳を貸さない。また、当のドイツ人たちがミュンヘンで得意の壁作りの技術を活かして難民キャンプの周りに高さ4m近い壁を作って隔離しているというような、不都合極まりない事実にも目を向けたりはしない。

 

少なくともヒラリーは、国民の融和とトランプへの協力する意思を表明はした。支持者たちがついていけるかどうかが注目される。

 

ヒラリーはこれまで女性大統領になる可能性の感じられるほとんど唯一の存在だった。女性大統領が今後誕生する日が来るとすれば、それはおそらく民主党政権であろうとは思われるが、民主党であれ、共和党であれ、2人、3人の女性が予備選を戦うようになって初めて、女性大統領の実現が視野に入ることだろう。

いずれにせよ、私が平均的な寿命まで生きることができれば、間違いなくその日を目にすることになると信じたい。

高大接続改革の本丸は大学入試センターの民営化

すでに高大接続改革の議論も方向性は概ね定まり、現行の大学入試センター試験に代わる新テストの具体的な実施に向けて、その運用に関する情報が少しずつ明らかになるにつれ、

そんなことなら現行のセンター試験のままで良いのではないか?という、おかしな状況になりつつある。

結局のところ、実施体制はセンター試験を踏襲し、記述式にかかる科目数がさらに増え、その上記述式の採点も大学に投げると言う状況になるのであれば、もうセンター試験をやっている方がナンボかマシなのではないか?というのが少なからぬ大学教員に共通する想いであろう。

というわけで、先日ツイートしたこれである。

どなたかが強く主張されているようなことを寡聞にして聞かないのであるが、大学入試センターそのものを民営化すれば、新テストに関する問題は、ほとんどすべてが解決してしまうだろう。なぜそのような話にならないのであろうか?

 

大学入試センターの民営化を、高大接続改革のみならず、行政改革の目玉にもしていただきたい。

 

すでに入試でも英語については民間の試験の活用が進められている。なぜ他の科目でもそうしようという話にならないのか?そもそも大学入試センター独立行政法人である必要があるのか?おそらく、数ある独立行政法人のなかでもトップクラスの無駄を垂れ流している組織であろう。これから少子化が進行すれば、ますます無駄は大きくなることだろう。

現在の各予備校の模試の実施状況から考えて、民間にある程度の条件を提示して入札を行えば、記述式であれ何であれ、毎年複数回の実施も可能であろう。

二次試験は各大学が個別に実施するという前提で、民間で年に複数回実施できるのであれば、トイレ休憩も与えずに受験生を試験室に3時間も監禁する非常識な時間割を組むようなこともなくなり、監督業務に明らかに不向きな大学教員を無理やり貼り付けてリスク要因を増やすような判断はしないであろうし、それでも避けられない些細な人為的ミスを全国ニュースで取り上げるような馬鹿げた真似もしなくてよくなり、不良品率を尋常ならざる低さに抑えた機械をわざわざ高いコストをかけて作ることに血眼になることもなくなるだろう。たったこれだけでも共通テストをめぐる状況はずいぶんと改善する。

結局のところ、現行のセンター試験であれ、新テストであれ、あらゆる問題はすべて、独立行政法人であるところの大学入試センターが実施することに起因している。

大学の関係者には、小泉改革以来の「民間にできることは民間に」というスローガンに対して脊髄反射的に否定的な態度を示してしまう方も少なくないとは思う。しかし、大学入試センターを民営化すべきだと声を上げたからといって、必ずしもあなたが全面的に小泉改革に賛同しているということにはならないし、ネオリベのレッテルを貼られることもないだろう。心配は不要である。

新テストをどのように実施するかなどということは問題の本質ではない。今こそ「大学入試センターを民営化せよ」と声を上げるべき時なのである。

学習指導要領改訂の矢先に教員削減を要求する素敵な縦割行政

財務省文部科学省に対して、教員の削減を要求すると言うニュースが流れた。

財務省 公立小中学校の教職員 4万9000人削減案 | NHKニュース

 

少子化の進行により、今後10年間で公立小中学校教員を49,000人削減できるはずだと言う主張である。

日本の公教育では、児童生徒一人当たりの教員数は、他国と比べて特に多いわけではないが、財務省の言い分として現状を維持することは可能であると言うからには、改善する気は無いと言うことであろう。よりによって、文部科学省としてはアクティブラーニングの導入を目玉とした学習指導要領改訂の矢先にこうした話が出て来るあたり、いかにも日本的な官僚組織の連携プレーである。

少なくとも、今後のアクティブラーニングの導入や、英語教育の前倒しなどを考えれば、すでに実効性に疑問符がついている、これらの教育改革が教員削減によって完全に破綻することは目に見えている。そう遠くない未来に、ゆとり教育がもたらした以上の悲惨な未来が待っているという覚悟が必要になるだろう。財務省には文部科学省と共に教育行政の失敗を主導した戦犯の地位を引き受ける覚悟を持って予算の削減に取り組んでいただきたい。

 

もちろん、現職の教員の指導力の底上げも不可欠であることも間違いない。英語力はもちろん、アクティブラーニングで指導できる教員もごく一部に限られている。ほとんどの場合、グループで何か調べて発表してお茶を濁す、という以上の授業にはならないだろう。結果として、多くの児童・生徒に十分な知識を伝達できずに時間が過ぎると言うことになりかねない。多くの教師は、知識を伝達する技能は学んできているが、ファシリテーションの技能はおぼつかない。免許状の更新講習で新たに必要なこれらの技能を身につける研修を行うとしても行き渡るまでに10年かかってしまうし、免許法認定講習にしても、実施する資源には明らかに限りがある。

(そもそも講習を実施する側からして、アクティブラーニングや英語での講義ができる能力のある講師というのは限られている、という身もふたもない事実は、更新講習を受講した教員のみなさまはすでに理解されていることだろう。)

 

とは言え、今の教育環境を改善した方が良いことは確かではあり、人員の配置はそのための有効な方策であることも疑いの余地はないのだが、今回のような教員削減という政策の方向性に対して、まとまって声を上げる主体はほとんど無いと言ってよく、財務省としては、たいして反対されなさそうなところの予算を削るという話でしかないのである。

 

そうして、未来世代への投資よりは過去の世代に対して財政資源は投入されることになる。

 

もっとも、

教職員を増やす前に、まずはスクールカウンセラーなど外部の人材を活用してその効果を確かめるべきだと主張しています。

という点については、その通りであろう。

 

部活動のサポートなどは外部に任せるべきで、部活の指導をどうしてもやりたいという教員には、指導者への兼任を認める形にすれば良いだろう。部活は全て地域のクラブチームに移行して、指導者に正当な対価を支払えるようにすれば良い。

いじめなどの違法行為や、モンスター化する保護者への対応も、現実的には教師が対処できる問題ではなくなりつつある。教師が対応するのではなく、警察や裁判所の仕事であることを明確にした方が良い。

 

学校を聖域化することをやめ、教師の職務の範囲をきちんと制限して、定められた以上の業務に従事してはならないというくらいにするべきだろう。 

そのようなことが徹底されるのであれば、教員を削減することも不可能ではないかもしれないが、そのようにはならないであろうことが容易に想像できるのが辛いところである。

罫線との醜い闘い

科研費申請のための書式の罫線に苦労している人は多いようで、河野太郎議員の以下のツイートに歓喜した大学関係者は多数いたと思われる。現に私もRTした。

科研費申請書類の問題はもちろん罫線だけではないのだが、締切直前でまさにその問題で四苦八苦している研究者が多かったということでもあるのだろう。

その後、河野議員による内閣府の窓口を紹介するツイートで、概ねこの問題は政治家から行政に投げられたことになる。

それはつまり、ツイッターで太郎ちゃんにお願いするだけでなく、内閣府の窓口にきちんと提案しないと変わらない、ということでもある。みなさん、できるだけ多くの意見・要望を届けようではありませんか。

さて、Wordの申請書式の罫線がずれる問題に話しを戻すと、確かに面倒ではあるのだが、うまくやる方法もないわけではない。

特にMacユーザーからの、せっかくフォーマットを調整したのに電子申請システムにアップロードしてPDF化するとまたずれてしまう、という発言を複数目にしたが、Macユーザーであれば、wordファイルをアップロードするのではなく、プリントダイアログに出てくる「PDFとして保存…」で出力されたPDFをアップロードするべきである。そうすれば変換時の問題はほとんどが解消する。

少なくとも、科研費の電子申請システムで調書の最初のページが自動作成されるようになったことは、それまでのエクセル原稿用紙への入力を強要されていた時代からすれば大きな進化であるし、Word文書でなくPDFを直接アップロードできるようになったことも大きな改善であることに間違いはない。

とはいえ、根本的な問題解消には程遠いのが現状である。

書式そのものの問題としては、何と言っても費用の明細の部分であろう。数値を入力させるにもかかわらず小計、合計を自動的に計算出来ないような書式というのは、思いつく方がむしろ難しいのではなかろうか。そのような頭脳はある意味偉大である。

ここで自動的に計算ができないために、多くの大学で何人もの事務職員がチェック・検算していることと思うが、それは基本的に機械がすればよい仕事であろう。AI導入を声高に叫ぶより前に導入すべきプログラムがあることに気づくべきである。

また、研究代表者や分担者の研究業績、科研費の過去の受入実績、他の申請中の研究や受入予定の研究費を入力する点についても、多くの人が指摘している。研究業績はJ-StageやResearch Mapのデータを活用すればよく、科研費については期間・金額・成果など、必要なデータはすべて科学研究費助成事業データベースに蓄積されているのであるから、いずれも研究者番号で名寄せすれば済む話であり、わざわざ入力させる必要性は皆無である。

こうした指摘に対して真摯に耳を傾け、文部科学省は改革の先頭に立って、PDCAサイクルを何回でも回して、申請プロセスの改善に邁進していただきたいものである。

幸か不幸か、来年度からは科研費の審査方法が大幅に変更される。まったく期待はしていないが、文部科学省PDCAサイクルを適切に回すことができているのであれば、申請書の作成にかかる負担も大幅に軽減されることだろう。

科研費と研究者

今年のノーベル賞ウィークは初日から医学生理学賞を大隅先生が受賞されたことで、大隈先生による「私と科研費」の記事が話題である。

私と科研費 | 科学研究費助成事業|日本学術振興会

どこの国立大学も、大学から支給される研究費については、いつゼロになってもおかしくない状況である。そこで多くの研究者は、自ら稼ぐことのできる競争的研究費であるところの科学研究費、すなわち科研費を申請して研究活動に必要な経費の獲得を目指すことになる。

もちろん、官民含めて、他にも競争的な研究費は多数あるのだが、科研費ほどに対象となる分野の広さと資金の規模を持った競争的研究費は国内にはほかになく、わが国の研究活動の基盤となる存在である。

概ね2年から3年の期間が中心であろうと思われるが、その期間に何をどこまで明らかにするか、その成果などのような意義があるのか、明確に示して認めてもらわなければならない。審査のある競争的研究費の獲得レースにおいては、何に役に立つかまで具体的に見えにくい基礎研究は、必然的に不利である。

特に論文の数も多くはなかったと言われる大隈先生が長く科研費の支援を受けて来られたことは、かなり例外的と言える。

本来的には、ある程度ばらまく研究費が必要な分野もあるだろう。競争的な枠組みでは学振もあるし、科研費にも40歳以下を対象として比較的獲得しやすい若手枠もある。しかし、どちらかと言えば、年齢による若手枠と所属機関から支給される研究費は廃止して、例えば研究者として着任して10年間程度は無条件で国が研究費を支給し、段階的に競争的研究費に移行して研究者としての資質と成果を問う、と言った方策の方が効果はありそうである。

科研費の増額については毎年要望が出されており、もちろん増えるに越したことはない。ただ、周りを見回す限り、優秀な研究者はほぼ全員が科研費を獲得して研究を実施しており、ピアレビューによる研究者としての選別は概ね有効に機能しているように見える。もし仮にまかり間違って科研費の予算枠が増える日が来るとしても、採択数を増やすよりは支給額を増やす方が有効であろう。来年度からは新しい審査の仕組みが導入されることになるが、きちんと研究を行っている研究者を支援するという部分が失われることのないようにしていただきたいものである。

国立大学によっては、科研費を獲得できないと人間扱いされないというような話も聞くが、基本的に正しい扱いと言えるだろう。少なくとも代表として科研費を獲得したことがないような者は、研究者や学者を名乗るべきではない。

各大学では今年度の申請がほぼ出揃ったところであろう。自分自身にも、みなさんにも、良い知らせが届くことを祈りたい。

大学ランキングのはなし(追記)

昨日、BBCにどこの国の学生がもっとも賢いのか?というOECDのテスト結果に基づく記事が出ていた。この記事で指摘されていることは、わが国の大学改革の方向性や、大学ランキング騒動を考える上でも大いに示唆に富んでいる。

www.bbc.com

These figures, based on test results rather than reputation, show a very different set of nationalities from the usual suspects.

The OECD's top 10 highest performing graduates

  1. Japan
  2. Finland
  3. Netherlands
  4. Australia
  5. Norway
  6. Belgium
  7. New Zealand
  8. England
  9. United States
  10. Czech Republic

None of the countries in the top places make much of an appearance in conventional university rankings.

 

レピュテーションではなく、テストの成績にもとづいて示されたリストには、(大学ランキングなどから)想像されるものとは随分と異なる国々が挙げられている。

OECDによるテストで大学の卒業生が優秀な成績であった国トップ10

  1. 日本
  2. フィンランド
  3. オランダ
  4. オーストラリア
  5. ノルウェー
  6. ベルギー
  7. ニュージーランド
  8. イングランド
  9. アメリカ
  10. チェコ

上位には、よくある大学ランキングではほとんど目にすることがない国々が並んでいる。

先の革新的大学ランキングでは日本の大学の研究が高いレベルで維持されていることが明らかになっているが、教育に関しても、エビデンスにもとづいて評価すれば、日本の大学は十分に高いレベルで機能していることが分かる。

このような結果に対して、記事内で取り上げられているQSの責任者のコメントがまたたいへん興味深い。

While the OECD has compared standards across national higher education systems, the university rankings are focused on an elite group of individual universities.

OECDは国全体の高等教育の仕組みそのものを比較しているが、大学ランキングはエリート層の個々の大学に着目している。

確かに、エリート社会というのはレピュテーション、すなわちコネが何よりものを言う世界である。その意味において、QSやTHEのランキングが客観的な指標よりもレピュテーションに大きく左右されるものであるというのは、極めて妥当なものだと言えるだろう。

しかし、そのようなランキングでの評価を基準にして、わが国の高等教育の未来を考えることは果たして妥当なのか?ことあるごとに「エビデンス」にもとづく施策を求める教育行政にあっては、もっと真剣に考えるべきであろう。

大学ランキングのはなし(国際)

そもそもスーパーグローバル詐欺の発端はと言えば、運営費交付金の枠が削減されていくことを見据えた予算確保のため、国立大学法人の改革プランの中で、10年間で世界の大学ランキングトップ100位以内に10校以上を送り込むという、無謀とも言える目標を掲げたことにある。

スーパーグローバル大学のトップ型に選ばれた、北海道、東北、筑波、東京、東京医科歯科、東京工業、名古屋、京都、大阪、広島、九州、慶應、早稲田の13大学は、まさにそのような目標を掲げる大学である。

皆さんすでにご存知かとは思うが、目標の前にある現実を一度おさらいしておく。

今年のQSのランキングにおいて、100位以内に位置しているのは、東京、京都、東京工業、大阪、東北の5大学であり、日本の大学で10番目にあたる慶應が220位あたりにいる。

同じく今年のTHEのランキングでは、100位以内に入っているのは東京、京都の2大学のみである。日本の大学としては10位の東京医科歯科で401-500位に位置している。国内8位に豊田工業大が入ってくるあたり、いかにレピュテーションの比重が大きいかが分かる。このランキングにおいて100位以内に10校送り込むというのはさすがに寝言でしかないだろう。授業を英語化して留学生を呼ぼうとするより、「米国内に国立大学法人の分校を設立する事業」を推進した方が良い。

このような現実を前にしながらも大学改革に突っ走る文部科学省に批判的な大学教員は少なくない。世界どころかアジアでの地位の低下は、文部科学省の進める大学改革のせいであるかのような論調も目にする。

私自身も、今進められている改革が必ずしもランキングや教育・研究の質の向上につながるなどとは思ってはいないが、そのような大学教員にとって不都合な真実は、日本の大学のランキングは決して下降してばかりでもないということである。

確かに、東大京大を始め、国内トップ5くらいまでのランクは低下しているかもしれない。東大がアジアのトップから陥落というのは比較的衝撃を持って受け止められていたようにも思う。その一方で、国内の5-15位あたりに位置している大学のランキングは、上昇傾向にあるようにも見える。その意味するところは、お金をかければランキングは上がるということなのだろう。

大京大一辺倒の予算配分から、国立大学の機能分化の方針に合わせて、国際的に競争する研究志向の大学に対して、運営費交付金は削減されているとは言え、競争的な資金がかなり振り分けられるようになっていることは、無視できない効果はあるのだろう。

もちろん、競争的な資金では、教職員の事務処理のコストがバカにならないこと、長期的な視野に立った人材育成や研究活動に支障があることは明らかである。財務省を説得する材料であることを差し引いても、もっと効果的なやり方があるはずだというのは、大学に籍を置く者に共通する思いだろう。

ともあれ、QSやTHEのように、知名度による部分が大きいランキングでは、苦戦しているものの、トムソン・ロイターの革新的大学ランキングにおいては、日本の大学は健闘している。その理由は明確で、このランキングでは、知名度や評判といった「エビデンス」に欠ける指標は排されており、具体的かつ客観的な成果に基づいているからである。

16位の東大を筆頭に、大阪、京都、東京工業、慶應までが50位以内にランクされ、九州、名古屋、北海道と8大学が100位以内に位置している。

世界全体にさきがけて発表されたアジアでのランキングに限ると、アジアで20位の北海道の下には26位広島、29位筑波、31位東京医科歯科と続いており、このランキングに関しては世界のトップ100位以内に10校というのは、あながち無謀な目標とは言いきれない。

この革新的大学ランキングは、基本的には研究成果によるものであり、教育機関としての大学という面は評価されていないことは差し引いて考える必要はある。しかし、日本の大学は、言葉の壁がある中で、成果だけを見ればグローバルな研究環境においてかなり競争できているということでもあり、勇気づけられる結果である。このことは、グローバル化の掛け声のもとで進められようとしている、授業の英語化や留学生数の目標設定の是非について考える上でも示唆を与えるものだと言えるだろう。授業を無理やり英語にした結果、なんとか崖っぷちで踏み止まっていたところを背後から突き落としてトドメを刺すような事態にならないことを祈りたい。