スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

第2集団のジレンマ

国内の大学の上位集団を形成しているのは、国際的な舞台で競争することが求められる国立大学なのであるが、ランキング的なことで言えば国内の先頭あたりににいる旧七帝大と東工大に続く位置にいる、いわゆる第2集団、第3集団の大学をどうするのかというのが課題である。

概ね旧官立をベースとした総合大学である、筑波(天下りで話題の茨城はここではお呼びでない)、神戸、広島あたり、少しあいて千葉、新潟、金沢、岡山、熊本といったあたりになるだろうか。

このあたりの大学は、端っこの辛うじて旧帝大の2校とともに、常に大学改革への意気込みを試される位置にある。その結果、文科省に尻尾を振りつつ学内をしばき上げるといった対応を取らざるを得ないわけだが、ここに第2集団ならではのジレンマがある。

先だって一橋から香港科技大へ移籍する研究者の一連のツイートが話題となったが、スーパーグローバルであれなんであれ、大学としてグローバルに競争するということは、グローバルな研究者の移籍市場・争奪戦にも嫌が応にも参入することになるという自覚が必要である。ではあるが、個々の大学はもちろん、文科省にもそのような自覚は無く、そのための制度的な基盤も無いということが問題である。結果的に、優秀な研究者を抱えていればいるほど、草刈り場になる危機にある。

実際、これら第2集団の大学から旧帝大へ移籍する研究者は少なくないのが現実であるし、優秀であればあるほど、旧帝大を飛び越えて海外へと移籍する研究者も増えるだろう。旧帝大と言えど、国際的な研究者の獲得合戦となるとその競争力は疑問である。

結局、今のランキング対策を見据えた評価基準で高い評価を受けられる研究者が活躍すればするほど、引き抜かれる可能性は高まるが、限られた資金では積極的に引き止める術はなく、下手をするとOBでなければ残ってもらえず、大学としての質が低下するという事態が待っているという未来は容易に想像できてしまう。

グローバルな大学間競争で勝ち抜くために、新しい指定国立大学法人では給与体系も新たに用意できるとは言え、一流の頭脳を呼ぶ前に学内の期待の星はことごとく流出していたということになれば、ランキングの上昇など夢のまた夢である。

特に、2番手集団の財政規模であれば、学内の役立たずな給料泥棒を排除する必要性や有効性は理解できる。しかし、現状で行われている施策は、有望な人材の移籍意欲を高める効果しかないという事実も受け止める必要があろう。結果的に、移籍できる優秀な人材は流出、比較劣位としての給料泥棒だけが残留し、第2集団は揃って世界のトップから取り残されるという事態を招くだろう。

引き抜きにカウンターオファーをしようにも、その手段はあまりに限定的である。例えば、テニュアトラックにある助教や講師に対して、できる対処があるとすれば、任期の繰り上げ終了とそれに伴うテニュアポストの提供くらいしかない。給料を上げる余地がほとんどない中では、昇進込みのオファーをしたいところではあるが、そうなると一気に実現に向けたハードルが上がってしまう。

まずは、トップ研究者の招聘より先に、足元の流出対策をはかることが国内の大学にとって必要なことであろう。それは国内ではトップに位置する旧帝大と言えど、国際的にはこの第2集団というべき位置であるからには、なおさら重要である。

 

自殺をめぐる不都合な真実の話

あまり気が向かない話題ではあるが、書かないわけにもいかないだろう。一橋大学のロースクールでの同性愛のアウティングに端を発する自殺について、本日開かれた口頭弁論を踏まえた記事が出ていた。

基本的に自殺したアウティングの被害者側に立った記事であるとはいえ、書かれている内容そのものはひどい話である。アウティングから自殺に至る経緯はこれまでもしばしば示されているので割愛するが、一橋大学の対応はまったく救いのないものだ。

裁判の結果がこの後どうなるかはさておき、国立大学の暗部が描かれている。

被害者であるロースクールの大学院生Aさんは、たびたび一橋大学のハラスメント窓口や保健センター、教員に相談していたという。

それにも関わらず、一橋大学の主張はなかなか大胆であると思う。

Aの死は突発的な自殺行為によってもたらされたものであって、被告大学の様々な配慮にもかかわらず防止することができなかったことは遺憾ではあるが、人知の及ぶところではない

また、新たに明らかになったこととして、

当事者であるロースクールの教員ですら、裁判になるまで、この事件のことを知らされていませんでした。ご家族が勇気を振り絞って立ち上がらなければ、永遠にお蔵入りするところでした

とのことである。分かっていてもこれはすごい。少なくとも、一橋大学には、こうした事件が起きてしまったことを教訓として、次の事件を防ぐために活かそうという意識は皆無であるということを示している。

ただしかし、学生の自殺した事実を周知・共有しないという姿勢は、必ずしも一橋大学に限ったものでもないということも指摘しておく必要はあるだろう。都心部から郊外に移転した大学をはじめとする一部の国立大学で、自殺者が少なくないことは大学の関係者の間ではよく知られている。しかし、これらの大学では、ほかの学生への配慮と言う建前もあり、基本的には自殺者が出た事実を公表すると言ったことはないのが一般的である。もちろん、学外にも聞こえてくるような話題であるからには、噂としては学生にも教員にも広まるのは当然だとは思うが、学内でも公式なルートで自殺したという事実が共有されることはないようだ。大学側としても、積極的にアピールするような内容ではないというのもわかる。

しかし、不祥事についてもプレスリリースが出されるようになった今、各大学は在学生の自殺を含む事故についてきちんと公表するべきであると思う。そうすることで、一部の大学に目立って多く発生していることや、少なからず環境に左右されているであろうことも見えてくるだろう。

自殺者が相対的に多いという事実は、大学にとっては不都合な真実ではあるが、受験生にとっては知っておくべき情報である。大学の広報には決して出てこないが、大学を選択する際に考慮すべき(したがって自ら積極的に情報収集するべき)ポイントであると思う。

 

研究費を誰にどのように支給するべきか

ここ数日、職業研究者としての能力・資質と競争的研究資金の獲得、機関が支給する研究費との関係について、考えていたことを整理してみたい。

大学の目指す方向性の違いの明確化だけでなく、大学教員もまた研究中心の人、教育中心の人、社会貢献中心の人、学内行政中心の人と、役割が明確になっていくのはやむを得ないことだろう。

 ToruOga( o ̄▽)o<※ on Twitter: "やはり研究トラックと教育トラック、それからURA業務を統括するような管理部門のトラックは分けたほうが良いと思うのだけど。"

そもそも人には向き不向きというものがある。やりたいことをやるなとは言わないが、組織としてはより適性の高い分野で多くの成果を出してもらった方が良い。実際、東京近辺には自分で重点を置くべきところを決めてそれによって評価するという国立大学法人もあるようだ。

nasastar on Twitter: "@toruoga0916 ちなみに教育、運営、研究などのエフォートの配分と業績評価の重み付けが連動していたりもします。なので僕のような働き方だと研究の比重低めで、運営へのコミットをより評価してもらうような形も可。職位で大枠は決まってるが、上長との相談でどこを重くするのかも弄れるのです"

正しい方向性だと思う。

科研費については、来年度からは年齢ではなく採用からの年数に応じて若手に申請できるようになるという話もある。そのような条件であればなおさら、科研の若手を一度も獲れないまま、若手の申請資格を失い、その後も基盤Cさえ獲れないようであれば、やはり職業研究者としての資質・能力に疑問符がつくことは避けられないだろう。

当然のことながら、科研を獲るというのは研究代表者として採択されるという意味である。研究者としての資質や能力を判断する上では、分担者では意味がない。

もちろん、研究者としての資質・能力に疑問符がつくからといって、それで研究をするなというのは行き過ぎだとは思うが、無条件支給の研究費は職階に応じて順次削減して良いだろう。外部資金を獲れない教授の研究費は当然ゼロで良い。

文系でいわゆる学術論文的な業績がないのに教授になるというような方々であれば、おそらく一定の知名度があって講演や執筆で対価を得られているということであろうし、それはそれで良いだろう。

所属する研究者に対して、機関が配分する研究費のあり方としては、まずは任期付やテニュアトラックの若手に対しては無条件で一定額の支給を保証すべきである。研究に関してもスタートアップ期間であり、競争的資金を獲得できるだけの研究業績を積み上げられるようサポートすることは必要だ。

それ以外の研究者に対しては、無条件で支給する研究費は基本的にはゼロであっても構わない。外部の競争的研究資金の獲得具合に応じて配分すれば公平だろう。学内で申請・審査をすることなく、学外の第三者のピアレビューの結果に従って配分するのは組織の手間も研究者の手間も削減できるので合理的である。

そもそも、兼業収入ではなく、外部資金として研究費等を獲得した研究者は、間接経費として、それなりの金額を所属機関に対してもたらしている。中には間接経費の一部を研究者に還元している機関もあるが、研究費の配分において優遇されるのは当然である。

科研に関しては、それぞれ自らの意思で選んだ分野でその研究の価値をピアレビューされる。多くの研究助成も、対象となる分野はかなり絞り込まれている。そのような専門的な分野においてさえ長年にわたって評価されないのであれば、それは自らの研究者としての資質・能力をよく考えるべきであるし、評価される分野を研究以外に見出す方がよい。もちろん、趣味で研究を継続することは誰も否定などしていない。いつまでも研究者面で研究費を要求するのはやめてもらいたいというだけの話なのである。あなたが無駄にする研究費でより多くの成果を生み出せる若手はいくらでもいるのだ。

競争的でない競争的資金を巡るあれこれ

しばらく駄文を書く暇のないままに新学期になってしまった。4月といえば、科研費の採否が開示される日である。昨年度が最終年度であったので、獲れなければ研究費が不足することは目に見えている。落ちる予定などあるわけはなく、結果的には採択されたわけだが、必ず通る保証もあるはずはないのであって、結果を見るまでは安心はできない。

というところで、日本の競争的資金などそれほど競争的ではないというツイートを目にした。

TAL on Twitter: "日本の「競争的資金」は実はそれほど「競争的」ではない。例えば若い研究者でもPIになって研究費をけっこう簡単に取って来られるがイギリスだと若い研究者がPIでグラントをとるハードルはずっと高い。正直言って日本で「競争的資金が悪い」と言ってる連中は世界に出たらすぐに死んでしまうと思う。"

研究者レベルで申請する競争的資金については指摘の通りなのだが、競争的資金の比率が増やされているという話は機関向けについても同様であるので、競争的資金が悪いという話しはあながち的外れでもない。

と言うのも、文部科学省としては予算確保のためには財務省を説得しなければならないわけで、予算配分に対する成果の見える化はしなければならない。そこで大型の機関向け補助金が投入されるわけだが、文科省としても運営費交付金削減の埋め合わせをしなければならないことは明らかなわけで、こうした大型の機関向け競争的資金というのは、ある程度出来レースと相場が決まっている。

背伸びして申請する価値のある事業も無いわけではないが、最初からお呼びでないような事業も多い。

天下りを受け入れなかったからスーパーグローバルに落ちたというような寝ぼけた話しをするジャーナリスト氏もいるようだが、天下りの学長を受け入れたところで茨城大学がスーパーグローバルをとるような事態はそもそも想定されていないのである。そのためのCOCなのだ。

もちろん、論功行賞で資金が投入されることも無いわけではない。真っ先に文系学部を再編してデータサイエンス系の新学部を作ると宣言し、「数理及びデータサイエンスに係る教育強化」の拠点校に選定された滋賀大学などはその好例であろう。

というわけで、機関向けの競争的資金というのはだいたいにおいて決まりきった話であるので、教員の限られたリソースを無駄に消費するような分厚い申請書など書かせたりせずに配分するようにすれば良いのである。

指定国立法人の申請には随分厳しい条件が付されていたが、良い方策と言える。そのように事前に申請のための条件でフィルターにかけておけば良いだけの話なのである。過去の成果に基づいて申請条件を厳しく定めておくことで、どのような成果を上げている大学を支援するかというビジョンを示しつつ、採択校のレベルを担保し、競争的資金の申請に必要となるエネルギーを大幅に削減するべきである。

さらにタチが悪いのは、こうした大型の機関向け資金の目に見える成果として、新学部や研究科の設置を伴う「改革」が求められることも少なくないことだろう。おそらく、多くの大学においては、競争的資金の申請手続き以上に、新学部・研究科の設置申請のための膨大な事務手続こそが本当の悪夢である。

大型の資金が投入されるたびにこのような負担を伴う改革を頻繁に行わなければならないところに、昨今の日本の大学を巡る問題の要因がある。そもそもころころ頻繁に変わるような変化は改革ではない。単なる混乱と呼ぶべき状態である。設置申請やアフターケア、第三者評価のための手続きの簡略化は、改革疲れの大学を大いに助けるだろう。とは言え、審査そのものをあまりに緩くしてしまうと、わけのわからない大学がますます増えてしまうだけなので、書類作成にかかるリソースを削減できる方策を採用してもらいたい。

そうした事務処理負担の軽減を実現できれば、運営費交付金の削減と競争的資金への移行も、もう少し受け入れられやすいというものだろう。

 

 

癒着と出来レースとご褒美と

いろいろ駄文を書き溜めていたものの、年度末の忙しさの中ですっかりタイミングを外してしまった。まとめてボツにしたところで、まだなんとか賞味期限内の話題。

文部科学省天下り問題で、特にスーパーグローバル大学の選定について、癒着だという声が上がっているという話がある。

この件に関しては、珍しく朝日新聞産経新聞の意見が一致しているようなので、その一例として記事を挙げておく。

dot.asahi.com

www.sankei.com

さて、癒着というのは、文部科学省のスーパーグローバル大学の選定に関して、天下りを受け入れた名古屋大学は採択され、学長としての受け入れを断った茨城大学が不採択になった、ということが一つの根拠となっているようである。

だがしかし、このスーパーグローバル大学創成支援事業は、「大学改革」と「国際化」を断行し、国際通用性、ひいては国際競争力の強化に取り組むという目的からして、茨城大学はお呼びでないのである。

お呼びでないというと失礼な響きがあるかもしれないが、すでに茨城大学は大学COC事業の二巡目指名を受けており、すでに国立大学として目指すべき方向性が違うのである。

COCでもそれなりの規模の資金が投入されており、文部科学省としては、すでに十分埋め合わせをしているというところだろう。

そんなことを言っても、千葉大はCOC(一巡目指名)もスーパーグローバル(タイプB)も採択されているじゃないか!?というチバラキの戦いは利根川沿いでローカルにやっていただくとして。

基本的に文部科学省としては、この種の競争的資金による補助事業というのは、毎年削減を約束されてしまった運営費交付金を埋め合わせするという側面をもっており、したがって、それは旧帝>旧官立>いわゆる駅弁といった国立大学の序列のなかで、ある程度のお約束で決められた出来レースなのである。

一部、そうした序列を見直そうという動きの中で、下克上が起こる事もありうるが、それも本州の旧帝+東工大のトップグループを蹴落とすところまではなかなかいかず、旧官立グループでも特に筑波、神戸、広島あたりが旧帝の一角(というより端的に言えば北の端と南の端)を切り崩すかどうかというところが見どころである。同級生を自殺に追い込むロースクールを抱えるもう一つの旧三商の名門一橋大学については、大学の規模的にすでに厳しい。

さてそのスーパーグローバル大学に関しては、筑波と広島がタイプAに採択されたのに対し、神戸と一橋が落選して巷で話題となった。規模的にタイプB一択であった一橋は理解できるにせよ、神戸に関しては空気を読めずにタイプBに申請するという戦略ミスによる自滅であり、タイプA/Bの両方に申請した広島や、同じくタイプAで採択された東京医科歯科のファイプレーとの違いが際立っていた。

タイプA/B両方に申請した大学は4大学(東京医科歯科・広島・九州・熊本)あり、旧帝の一角でありながら両方に申請した九州大学の危機感もなかなかのものであると言えよう。神戸がタイプAに申請していれば、東京医科歯科や広島がタイプBに蹴落とされていた可能性も高かったであろうとは思うが、今となっては定かではない。

タイプBにしても、国立44大学中10大学の採択であり、狭き門であったことは間違いない。茨城大学が44大学のなかの34大学の側であったというのは特に驚くべきことではなく、天下りを受け入れなかった報復だと言うにはどう考えても無理がある。もしこの数字が逆で、44大学のうち34大学が採択されたにもかかわらず茨城大学は採択されなかったというようなことであれば、もしかすると天下りを受け入れなかったせいだろうか?という気もしてくるという程度の話であろう。

その一方で、出来レースと並んで、文部科学省の意向に沿った改革をすすめる大学に対するご褒美としての補助金採択というものもあることは間違いない。

たとえば、文系廃止騒動の真っ只中で、データ・サイエンス学部で真っ先に手を上げた滋賀大学。学長は文部科学省の方針を批判する一方で、組織再編ではどこよりも早く期待に応えるという巧みな手綱さばきを見せ、みごとに「数理及びデータサイエンスに係る教育強化」の拠点校として選定されている。共に採択されたのは滋賀大学を除けば旧帝大のみという中で、異例の選定結果となった。

mainichi.jp

「数理及びデータサイエンスに係る教育強化」の拠点校の選定について:文部科学省

文科省がこうしたご褒美採択を行うことは以前から知られており、滋賀大学のファインプレーであると言えるだろう。なかなかのリーダーシップである。

いずれにしても、違法な天下りという部分と、大学への助成金の採択というのは、国立大学に関しては切り離して考えて良いだろう。もちろん、私立大学の採択に関しては、ある程度見ておく必要はあるかもしれない。

たとえば、金沢工業大学の評価やポジションというのは、文部科学省からの人材の流入具合から考えると、あらためて興味深いところである。

癒着問題に関しては、国立大学よりは、ぜひとも私立大学の方にこそ切り込んでいただきたいものである。そのほうが公平な審査への近道であろう。

Fラン化する大学の実態とつぶすべき大学論

これだけ文章を書く暇があるなら仕事しろと言われそうなところで久々の更新。ネタが無くなると定期的に投下される感のある、Fラン大学ではこんなとんでもない実態が!という話であるが、昨日今日と、名門一橋大学出身のフリーライター白石新氏による記事がデイリー新潮に投下されている。

zasshi.news.yahoo.co.jp

zasshi.news.yahoo.co.jp

東京デザインウィークの悲劇に触れているところは目新しいが、それ以外は特に新鮮な話題が有るわけでもなく、文部科学省から設置計画履行状況等調査(いわゆるアフターケア)において是正意見がつけられた授業について、これで大学といえるのかというお決まりのパターンである。

東京デザインウィークに関しては、本来触れておくべきことは少なくないのだが、また別の機会に譲ることとして、ここでは割愛する。

そもそも、文部科学省からアフターケアで是正意見が付けられた授業というのは、単位を付与していることに問題があるのであって、リメディアル教育として単位を付与せずに実施する分には何の問題もない。実際に、いわゆるFラン大学に限らず、それこそ全国的に名の通った入試で一定の倍率を維持している大学においても、この種のリメディアル教育無しには授業が成り立たないのが現実である。

Fラン大学だけでこような内容の授業が行われているわけではないのである。

フリーライター氏の卒業した一流大学たる一橋大学のような国立大学においてはそのような授業は必要ないと信じたい方々も多いかもしれないが、すでに十年以上前から少なからぬ国立大学がリメディアル教育を実施している。

リメディアル教育の現状〜大学アンケートから〜 Between 2001

2001年の上記の報告によれば、89国立大学のうち約20%は、「高校までの(白石氏の表現を借りれば小中学校で学ぶ内容も含む)」教科書教育復習型のリメディアル教育を実施しているのである。もはや大学とは言えない。高等教育の危機である。

ちなみに白石氏の卒業した一流の中の一流大学である一橋大学においては、文部科学省のGPに採択された事業のなかで、「レポートの書き方講習会」を開催しているありさまである。(論文の書き方ではない。)さらには、学習相談コーナーでは、成績不振学生を対象として、授業外学習時間の確保や、学習の動機づけを行うサポートをしてくれるのである。学習の動機づけのサポートまでしてくれるとは、まるで小学校のようではないか。(Fラン大学ではなく、白石氏の母校、一橋大学の学習相談コーナーの話である。念のため以下に出典を記しておく。)

http://www.rdche.hit-u.ac.jp/~gp22/GPreport2011/gp-report-1.pdf

まさに由々しき事態であるとしか言いようがない。

Fラン大学より先に一橋を潰したほうが良いのではないか?旧三商の一角を占め、文部科学省からも事務局長を現役出向で受け入れているにも関わらず、スーパーグローバルにも採択されなかった状況の中では、まったく洒落になっていない冗談はさておき、現代の大学においては、高校までの内容を改めて学習するプログラムとしてのリメディアル教育は不可欠なのである。それはFラン云々(でんでん)ではなく、大学教育全体の問題である。

Fラン大学など潰してしまえ論者の多くは、どんな学生が入学しているのかを問題にしているわけだが、そのような意味においては、推薦入試を行う全ての大学はFラン化している。すなわち、ボーダーフリー状態で一定の学力に達していない大学生がすでに国立大学や私立のトップグループ校にも大量に在籍しているのが現実なのである。

したがって、どの大学を潰すべきかという議論は、どのような学生を受け入れているかより、どのような学生を卒業させているのか?という観点から論じるべき問題なのである。

Fラン大学とひとくくりに揶揄・批判する人々には、この視点が決定的に欠けている。偏差値だけは高い(ように見える)が、まともな教育を行わず在学中にほとんど成長させることなく卒業させてしまう大学こそ潰すべきであろう。そしてそれはあなたの母校かもしれないのである。

指定国立大学の公募

以前から話題となっていた指定国立大学の公募を文部科学省が開始した。

「大学全体としてすでに国内トップレベルの研究力、国際協働、社会連携実績」があることが応募の前提条件となっており、これら三つの領域に設定されているいくつかの要件のうち、少なくとも一つが国内で10位以内でなければそもそも応募する資格がない。

個別の大学の状況を把握しているわけではないが、三つの領域すべてで国内ベストテン入りというのはかなりハードルが高いと言えるだろう。領域ごとに個別に要件がいくつか設定されているあたり、応募件数と対象校は、文部科学省としては事前に絞り込んでいるということである。

もともと国会での法案審議でも、当初は数校程度で最終的に10校程度まで拡大ということであった。本州の旧帝大東工大くらいまではおそらくカバーされているのではないかとは思うが、それ以外では北海道、九州の旧帝勢と、筑波、神戸、広島あたりの旧官立勢が果たしてどうかというところなのだろう。

個別の大学の状況までチェックしてはいないのだが、今回の応募条件設定が、北海道と九州を含む形になっているかどうか、違う言い方をすれば旧帝大のうちいくつの大学が条件を満たせるのか、ということは、文部科学省の姿勢を知る上で、良い指標である。国内に本気で世界の舞台で闘う大学を作ろうとするなら、旧帝大こそ底上げしなければならないわけで、旧帝大が自動的に応募要件を満たせてしまうようではあまり意味がないのである。

それと同時に問題は、指定国立大学になった場合の大学側のメリットは何かということである。

指定国立大学に求められるのは、ガバナンスの強化を始め、基本的にはこれまで求められてきた大学改革の枠組と大きく変わるところはない。その上で、世界の強豪を見据え、これまでの世界に誇る研究教育拠点を作る系事業に比べても、越えるべきハードルが上げられている。

その見返りとして、確かにいくつかの規制緩和が目玉として用意されてはいる。

スター研究者の招聘のための高額な報酬体系の導入や、不動産の貸出が可能になることと、よりリスクの大きな金融商品等への出資が可能であることなのだが、果たしてこれが指定国立大学法人として新たに課せられる期待や義務に見合ったインセンティブとして妥当かというのは甚だ疑問である。

優先的に資金も配分するような含みは持たせているものの、スーパーグローバル詐欺でよほど懲りたのか、具体的な資金規模にはまったく触れていない。運営費交付金とは別枠で、スタートアップ経費を配分するということだが、要するに継続的な支援をするものではないことを明言しているのである。

その結果、法改正までして導入する割には、新しい制度としては基本的には大学が勝手にリスクを取って投資すればそこから得られた利益は大学のものにして良いという程度の話であって、大きなインセンティブにはなり得ない。それどころか、むしろ多くの構成員にとっては、進んで過大なリスクを取りに行くような執行部を持った不幸を呪うことになるというのが共通の認識であろう。そのような意味においても、スーパーグローバル詐欺と同様に、指定国立大学法人になったところで大したメリットはなく、わざわざ進んで指定していただかなくても結構というような事態であるようにも思える。

もちろん、謹んで指定国立大学法人に指定していただくことで、これからの国立大学としての地位を確かなものにするという視点が重要でないとは言わない。旧帝大という暗黙の括りを代替することになる、より客観的な選別基準を作りたいということはあるだろう。

そのようなことを考えると、蓋を開けてみれば、なんと本州の旧帝が一つも応募していない!というようなオチに期待したいところではあるが、それはさすがに無茶な期待というものなのだろう。