スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

草刈り場としての国立文系

文系の危機である。
人文社会学系の学部はより社会的ニーズの高い分野へと転換せよと言う中で、英文学や仏文学をやるのに文学部である必要はないと思うが、世の中そうは思わない人も少なくないようである。
文学をやるのに文学部でないのはけしからんということなのか、文学部以外で教えるのは嫌だというだけなのか、何れにせよその根拠はよく分からない。

文系の危機とはいうものの、それはコスパが悪いと考えられている国立大学に限った話であって、私立大学ではドル箱であるという事実は重い。
ドル箱になるだけの学生を引き受ける代償として、私立大学ではトップクラスの大学においてさえ、すでに在籍する学生のレベル差はかなり大きくなってきており、なんちゃら文学科でもなんちゃら語を扱うことなく日本語訳だけで済ませてしまわざるを得ないというような話もあるようだが、今のままでは国立大学にそのような日がやってくる覚悟はしておく必要はあるだろうし、実際地方ではすでにその足音は聞こえ始めていることだろう。
そのような状況を前にして、国立大学の使命とはなんぞや?と言うことが問われるわけであって、それこそまさにミッションの再定義に示されているはずのものである。昨今の大学改革にせよ、(特に)文系部局の改革にせよ、そもそもそうした経緯をふまえて示されたミッションの再定義に従って進められているわけであるが、やはり昔ながらの国立大学のありように従ってさえいれば良いと考えている方々もまだまだ多いように思われる。

しかし、今のままの形である限り、国立大学として、文系の部局を維持するだけの大義名分は失われていくことだろう。国立大学もまた、現在よりはるかに学習レベルの多様な学生を受け入れていくことは避けられず、多くの地方国立大学の文系学部において、今の教育(・研究)レベルを維持できるかどうかについては疑問を持たざるを得ない。

国としては国立大学は国立であるからこそできることをすべきであって、私立大学に任せられることは私立に任せれば良いと言う方向であろう。特に文系学部は私立大学よりはるかにードル箱のはずがお荷物になるほどにーコストをかけている以上、国立ならではの教育・研究レベルを維持できないのであれば、廃止することに躊躇する理由などあるはずもない。私立大学としても、国立に進んでいたパイを奪い取れるのであれば積極的に取りに来るであろう。文系の危機を前に、国立大学に所属する研究者と私立大学に所属する研究者に利害の対立などないというナイーブな研究者たちとは別に、私立大学には大学経営という現実的な意思決定要因がある。
そもそも自分たちの所属する組織が無くなろうかという時に、当事者がどのように行動するかというのは、まさに自分たちが身をもって示している通りなのである。

国立大学の、特に文系の教員には(私自身も含め)、今後もこれまでと変わらぬ教育研究レベルの維持に努めていく責任がある。現実問題として、入ってくる学生はかつての学生たちとはまったく異なる。しかしそれでも同等以上の教育効果をあげられないのであれば、もはや私学に任せた方が良いと言われればその通りなのである。すでに文系においては国立と私立の授業料の格差も縮まっている。

現実問題として、国立大学と私立大学は学生をすでに奪い合っている。国立大学の教員は、私立大学の教員のように、大学経営の視点など想像だにする必要はなかった。しかし、我々の働いている環境はもはやそのような古き良き時代の国立大学ではない。適応できなければ取り潰しも避けられないであろうし、一部を除く多くの国立大学の文系学部は、学生はもちろん教員に関しても、学内の他の部局や近隣の私立大学の草刈り場と化すだろう。そして旧来の学部学科にしがみつく教員だけが荒野に取り残されて立ち尽くすことになるだろう。

もちろん、国際的に優秀な研究者も多くいらっしゃるわけで、そこで一人ストイックに研究に打ち込むというなら、それも良い。ただ、文科省が悪い、人文系の灯を消すな、などと念仏のようにつぶやく魑魅魍魎の蠢く荒野にならないことを祈るのみである。