スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

スーパーグローバル大学をめぐる誤解

スーパーグローバルという恥ずかしい名前の是非や、本来のグローバル化がどうあるべきかという話はここではひとまず横に置いておく。
随分と威勢良く始まったはずのスーパーグローバル大学創成支援であるが、スーパーグローバル詐欺だともっぱらの噂になっているとおり、絶賛失速中の模様である。
世界のトップ100以内を目指すトップ型で年間最大5億円が10年間。この種の事業としては比較的大きな方だとは思うが、それでも大学全体の予算からすれば無視できないにせよわずかな割合であろう。5億円と言えど、学生が25000人いるとするならば1人あたりわずか2万円でしかない。年間2万円というと英会話に月1回1時間通うことさえできない程度の金額である。
その最大で5億円という予算ではあるが、採択数を予定よりも増やして、また予算も絞られた結果、当然のことながら1大学あたりの取り分は少なくなっている。平均で4.2億という想定であったところから、概算請求の金額の時点で山分けでも3.3億程度にしかならないので、実際のところトップ型でも3億を切るようなところもあるのだろう。そうなってくると1人あたり年間1万円程度の世界で、随分と割の合わない話というのはその通りで、ほとんど携帯電話会社の料金プランレベルの話である。
これでランキングどうこうというのは土台無理なお話であって、そんなことは誰でもわかっている。

だが、世界トップ100を目指すという目的は、実際のところそれほど重要ではなく、文部科学省にとってより重要なのはそのための手段として行われる大学改革の部分であろう。
国立大学のガバナンス改革や教育改革は、激しい競争にさらされている私立大学に比べて、明らかに遅れをとっており、その改革のためのアメの部分が最大5億円!ということであったと考えるべき事業である。
事業の目的はトップ100を…ということであるにせよ、事業概要を見れば、国際化関連と並んでガバナンス改革、教育改革が並んでおり、むしろ国内トップクラスの大学におけるガバナンス・教育改革支援事業といった方がよい内容なのである。つまるところ、表向きの目的達成とは別のところに事業の本来の目的があるのは公募要領を見れば誰の目にも明らかなのである。

そのようなわけで、よくなされるようなこれで本当にトップ100になれるのかというような批判は的外れなものである。それをきちんと読むこともできずに、これでランキングがどうこう言っているようなおめでたい大学教員はあまり信用しなくて良い。

本丸は大学の改革進行を遅らせている要因となっているガバナンス改革と教育面での改革なのである。
研究科長まで務めた教員を、学長にたてついたことにより解雇した岡山あたりの某大学に対して、特筆すべき改革の進捗状況にあると評価してしまうことからも見て取れる。さすがにまずいのではないか。学長権限に歯止めをかけ得る監査のあり方についてようやく検討し始めたようであるが、手遅れ感は否めない。

桃太郎が返り討ちにあった話はさておき、特に単科でない国立大学では、組織が巨大過ぎて抜本的な見直し再編などほとんど不可能であった。それが雪崩をうってクォーター制の導入などが行われるようになったのは驚くべきことである。それは、こうした改革の評価すべき成果であるかどうかは別にして、結果なのである。
もっとも蓋を開けてみればクォーター制の導入が有名無実化しているといった話も聞こえてくるので、良くも悪くも国立大学の本領発揮と言うところなのかもしれない。ランキングの低下を尻目に、事業としてはガバナンス改革と教育改革の部分でどれほど数値目標を達成できるかも問われているわけであるが、流行りの原則に従えば、出てくるお金が減ったのだから、成果もそれなりに終わるのは当然の帰結であろう。文部科学省と国立大学の綱引きは続く。

グローバル化をめぐる今回の文部科学省事業の少々残念なお話しとは別に、大学のグローバル化が本来目指すべきもののかたちについてはまた改めて書くことにする。