スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

左派の憂鬱と多数派幻想

参議院選挙が終わった。

旧来型の左派知識人も未だ多数生息している大学界隈からは、当然のごとく嘆きの声が上がっている。

勝てないのは翼賛メディアのせいだとおっしゃる皆様には残念な結果なのかも知れないが、野党共闘は大善戦したと言うべきだろう。激戦の1人区で、予想以上に多くの議席を確保した。

その反面、今回初めて選挙に参加した18歳19歳に関しては、圧倒的に与党支持と言うのも、リアルな現実を反映していると言えるだろう。シールズ界隈が「若者の代表」ではなく「学生運動をこじらせて年老いた左翼の代弁者」であることは誰の目にも明らかになった。このリアルな現実を受け入れられないところに、「リベラル」の敗因があるといつになれば気付くのだろうか?

ところで大学という場所には、社会の現実とは随分かけ離れた世界がひろがっている。そのような状況下で、長らく大学は左派知識人の拠点となってきた。そもそも、知識人といえば左派であることが前提であるような時代があった。そのような文脈で生きる人々にとって、日常的に接するのは左寄りの思想をベースにしたコミュニティであり、自らと思想的基盤を共有する人々が大半であった。そして、マスメディアへの一定の発言力によって、オピニオンリーダーとしての地位も確保されていた。

自分たちが社会(の世論)を導く存在であり、またマジョリティであるかのような幻想を抱いてしまったとしても不思議ではない。

そしてそのような状況は、Twitterをはじめとするソーシャルメディアにおいて、自分たちと思想を異にする層の発信する情報を遮断し、仲良しクラブの気の合う意見だけを見聞きしながら多数派幻想に溺れる現在の状況へと着実に受け継がれている。

しかし、そうしたマイノリティの閉じた世界での馴れ合いに気分を良くしていた皆様にとっては大変都合の悪いことに、大学界隈も社会の状況も、現在では随分と趣が異なっている。

少なくともかつてのようなメディアでの発信力は失われ、いわゆる左派の主張を否定するような主張を見聞きする機会も増えた。しかし、自分たち知識人というのは社会において基本的にマイノリティであるという自覚に決定的に欠けており、自分たちの発言力の低下をメディアの体制翼賛化という言葉で表現する以外の方法論を持たない。

また、知識人層(あるいは大学の教員層と言い換えても良い)としても、思想的に左端にいるような旧来型知識人だけでなく、中道もしくは右寄りの思想を持つ人が増えてきた。そしてそのような状況を目の当たりにして、単に社会全体と自分の立ち位置を客観視できていないだけであるにも関わらず、こちらも社会が右傾化していると言うだけで、現実を受け入れることができない。

自分自身も知識人であるかどうかはともかく、大学の教員として、旧来型の左派知識人からすれば明らかに右寄りの思想の持ち主ということになることは否定しない。現実問題としてネオリベ呼ばわりされることは普通にあるし、それはそれで好きにしていただいて良いとは思う。しかし、自称リベラルな方々は、自分たちが思っている以上に、真ん中よりはかなり左端に近いところにいる空想的理想主義者であるという自覚をお持ちいただいた方がよろしいかと思う。そのような自覚なくして、パヨクだのお花畑だの揶揄される状況を脱することはない。

自分たちの思い通りにならない現実を目の前にして、ファシズム化が進んでいる!翼賛体制だ!と叫ぶのはもちろん自由なのだが、その当然の帰結として、自らが信じる民主主義のもとでマイノリティとして負け続け、民主主義に裏切られ続けることになる。

そのような彼らの勝利が現実のものとなる日が来るとすれば、それは彼らがファシズムから(愚かな)大衆を解放するという大義名分のもと、民主主義を自ら破壊する時であろう。

それこそ悪夢以外の何物でもないが、民主主義はまさにそのようにして破壊されてきたということをすでに私たちは知っている。左端にいる自称リベラルな学者や知識人のみなさまがたや、反対側の右端の方々にとっては非常に都合の悪いことかもしれないが、ごく普通の市民であるところの私たちにとっては不幸中の幸いである。