スーパーグローバル学部増田准教授

理工系からこのご時世によりによって人社系に文転した大学教員の日記

研究費ゼロ円時代

国立大学においては、すでに研究費が限りなくゼロに近いところも出てきているが、いまのところ一定の研究費が確保されている大学に勤務している教員のみなさまも、もちろんわたし自身も含め、明日はわが身である。 

国立大学の運営費交付金が毎年1%ずつ減額されるということは理解していても、具体的にそれがどのような状況を意味しているのかという点については、あまりイメージが共有されていないようにも思う。

国立大学大学の運営費交付金は、どの大学でも公開されているので、ご自身の大学の決算をご覧いただば良いのだが、旧帝大クラスでは東大の800億円を筆頭に、いずれも300億円を超える規模である。しかし、旧帝大や旧高師を除くと、いわゆる駅弁系の総合大学では100〜200億円程度である。

したがって例外的とも言える旧帝大クラスを除けば、多くの総合大学で1%というのは1〜2億円であり、これが単年度ではなく、毎年削減されていくことになる。そして各国立大学は、その削減分を埋め合わせるだけの資金を何かしら捻出しなければならない。

スーパーグローバル大学等事業がトップ型で最大5億/年と言われていたのが蓋を開けてみれば2億そこそこで、詐欺だと言いたくなるのももっともな話である。

そこで多くの大学が手をつけることになるであろうところは研究費である。すでに新潟大学の件が大変話題になっているが、多くの国立大学があとに続くだろう。1000人の教員の研究費を30万円削れば年間3億円となる。支出改善の余地のある経常経費もまだまだ少なくないとは思われるが、研究費の削減は、ひとこと減らすと言うだけで2億3億捻出できることから、会計的には非常にハードルの低い埋合せ方である。もっとも、運営費交付金は平成16年度に国立大学が独立行政法人化されてからほぼ毎年1%程度ずつ削減されてきたところであり、今後も15年間にわたって毎年1%ずつ減額するという方針の前では焼け石に水でしかないのだが、現実問題として、研究費が数万円/年というような国立大学は、すでに新潟大学に限った話ではない。

おそらく多くの国立大学において、近い将来研究費はゼロになり、研究したい者は研究費を外部から稼ぐことが求められるようになることだろう。第三者に必要性を認められない研究は、公費ではできなくなる。

これを潜在的な可能性の芽を摘む暴挙である、と考えるのかどうかは判断が分かれるところであろう。可能性の芽を摘むことがあるかもしれない一方で、かなりの無駄金を節約できることは間違いない。

余裕がある時代であれば、可能性に賭けることもできた。しかし今は予算の奪い合いと無駄金を無くしていくことに血眼な時代であるからには、可能性にふんだんに投資することなどできはしない。可能性に投資するために年金支給額を引き下げるなどと言えば「早く死ねと言うのか!」と袋叩きにされる時代なのである。

それでもなお、可能性に投資しないのは間違っている、とおっしゃる方々もいらっしゃるわけで、もちろんその意見には賛同はする。賛同はするが、無限の予算があるわけでもなく、実現するとも思わないというだけである。

その上で、私自身のまわりの狭い世界で観測する限り、優秀な大学教員は、理系であれ文系であれ、基礎研究であれ、応用研究であれ、外部資金をほぼ絶えることなく獲得している。その意味では、金額としてはさておき、機会として可能性への投資はおおむね適切になされているように思われる。研究費がゼロになって困るのは、もともと大した研究成果を挙げておらず、今後も挙げる見込みの無い方々に限られる可能性が高い。したがって、外部資金を獲得できないような自称学者や研究者に研究費を支給する必要はないという点については、異論を唱える余地はほとんどない。

イノベーションは予想もしなかったようなところから生まれる可能性があることは事実であるが、イノベーションが無から生まれることもないのである。

こうした状況であるがゆえに、多くの国立大学は、研究費を躊躇することなく削減していくだろう。 研究費ゼロ円時代の到来はほとんど不可避のように思える。少なくとも自ら研究大学を名乗るような大学であるのならば、外部資金の獲得額に応じて大学からも研究費を支給するくらいの心意気は見せていただきたいところではあるが、さきだつものが無い多くの大学においては無理というものだろう。