スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

キュレーション社会の功罪ー心地よさと不寛容

あいちトリエンナーレ献血ポスターが炎上し、こちらで表現の自由の守護者を演じながら、あちらでは気に入らない表現を叩くみなさまも少なくないようである。

個人的にはあまり極端な立場をとることは好まないと考える方であるが、表現の自由の問題に関しては原理主義者であるので、個人的には結論は出ている。表現の自由を制約するいかなる試みも許してはならない。

したがって、表現の自由の問題ではなく、少し異なる視点からこれらの炎上問題を考えてみたいと思う。

 ツイッターをはじめとするソーシャルメディア等のもつエコーチェンバー効果については、しばしば指摘されている。自分の考えに近いユーザーだけをフォローしていくことで、まるで世界全体がそのような考え方だけで構成されるかのように錯覚してしまい、異なる見解を持つ他者の存在が見えなくなってしまう。比較的物事を客観視する訓練がされているはずの研究者でさえ、そのような罠から逃れられないということを、私たちは多くの事例を目にして知っている。

もちろん、このような傾向はレガシーメディアにもなかったわけではない。朝日新聞の読者と産経新聞の読者の見解が一致しないことが多々あることは理解されるであろう。とはいえ、ネットメディアに見られる現実認識の違いに比べれば些細な違いに過ぎない。

 

それでも、ツイッターでフォローしたり、新聞を購読したりといった場合には、どのような発言者・媒体を選ぶのか、という点に関して、主体的な選択の余地がある。ところが、今私たちの住んでいる社会は、そのような主体的な選択を許してはくれない場面も少なくない。

例えば、アマゾンや楽天といった通販サイトは、過去の購買歴や検索歴、広告に対する行動履歴の分析に基づいて、「好みの」商品やサービスをお勧めしてくれる。ニュースサイトやアプリもまた、過去のアクセス傾向に基づいて、関心のあるニュース、好みの話題を前面に押し出してくる。

いま現在の私たちは、おそらく、過去のどのような時代よりも、自分好みに編集された情報に囲まれて生活をしている。それはとても便利であるだけでなく、また心地よくもある世界である。

 

問題は、それがあまりに心地よいものであるが故に、異なる心地よさに生きる人々が、いままさに同じ世界に生きているという想像力が失われていくことである。

心地よさという言葉を、価値観、あるいは正義という言葉に置き換えても良い。

 

パラレルワールドのようでありながら、しかしそれは厳然としてすぐそばに存在する現実であることが理解されにくくなっている。

 

その結果、自らの心地よさに溺れるあまり、その代償として私たちは自分たちにとって不愉快な存在あるいは他者に対する耐性が著しく低下している。

それこそがまさに昨今の多くの炎上現象の背景にあるものであろうと思う。

 

興味深いことに、この現象は、思想的な背景を問わない。建前上は多様性を重んじると主張する層にも当たり前に見られる現象である。彼/彼女らにとっての多様性とは、自分たちの視界に入らない不愉快なものを含む概念ではない。

 

また、自分にとって不愉快なものを抹殺するために、「ハラスメント」概念は極めて便利で有効な手段として利用されるようになっている。

しかしながら、「ハラスメント」もまた、「いじめ」等と同様に、それがハラスメントであるかどうか、ハラスメントがあったかどうかの議論に意味はなく、きちんと犯罪行為として扱うべきものであると思う。

ハラスメントの名のもとで、犯罪行為を見逃すことを許してはならないのは言うまでもない。他方、不法行為として問うことのできないものをハラスメントとして裁くべきでもない。

安易にハラスメント概念を利用して他者の権利の制限を図ることは、いつでもブーメランとして自分たちに返ってくる危険があることは認識しておく必要があるが、その危険性についてはナイーブ過ぎる人が多いように感じる。

 

現代社会における不寛容の根幹にある要因の一つとして、自分に心地よく編集された情報に囲まれた、社会の分断とパラレルワールド化があることは確かであろう。

もちろん、これまでも、インプットされる情報の違いによる社会階層の分断がなかったわけではない。

例えば高級紙の読者層と、大衆紙の読者層のあいだには、それを読んでいるのはどのような人々か、という点において分断が可視化され共有されていた。

しかしながら、現代のキュレーションされた情報による分断は、極めて可視化されにくい。

郊外のニュータウンで、まとめサイトを見ながら電凸活動して老後の引退生活を過ごしている団塊世代の隣人は、リテラを読みながらアベを許すなと怒りに震えているかつての組合の闘士かもしれない。

 

可視化されにくいが故に、なおさらそのパラルワールドに生きる他者が、ごく普通に存在する現実を認めることは難しい。アベ政治を許さないのプラカードを持って行進する人々も、旭日旗を手に行進する人々も、どちらも一部少数のおかしな人々であるとは限らない。

 

不快なものの存在を認めることは難しい。できれば見ないで過ごしたいというのも人情かもしれない。

しかし、自らにとって不快であるからという理由で、そのような他者の存在そのものを許容しないことは、結果的に自らもまた守られるべき多くの自由を失うことにつながるだけだろう。