スーパーグローバル学部増田准教授

理工系からこのご時世によりによって人社系に文転した大学教員の日記

限りなく黒髪にちかいブリーチ

大阪の高校で生まれつきの茶髪に黒染めを強制された件で裁判になって海外でも話題になり、スーパーグローバルハイスクール事業を所轄する文部科学省も国際的な知名度の向上にさぞお喜びのことかと存じます。

このような指導がひろがった背景として、今回は大阪の高校であったことで、維新府政の教育への介入どうこうという論調も見かけますが、正直あまり関係ないと思うのです。まったく無関係であるとも言いませんが。

高校で強制的に黒髪に染められたことに対する訴訟や人権救済の申し立てなどは、橋下府政の登場前の2000年台半ばから出てきています。

以下の例は訴訟についてですが、下部に参考として人権救済の申し立てなどの事例も掲載されています。

注目の教育裁判例(2012年12月)

こうした司法に訴えられた事例を引くまでもなく、21世紀に入る前の、それこそ我々が高校生であった時代から、茶髪にした生徒が黒く染められたと言った話しはありましたので、何も最近突然出てきた話でもないはずです。

問題は、なぜ最近になって話がややこしくなって来たのかということにあります。

一つは体罰に対する考え方の変化で、昔はしょっちゅう目にしていた体罰も、ほぼ目にしなくなっていますし、ただちに社会問題になります。ここでは無理やり髪を染める行為が体罰であるかどうかという点が争点となり、社会問題として取り上げられやすくなったと言えます。

もう一つ、生徒や保護者の姿勢の変化もあります。

我々が高校生の頃、髪をわざわざ茶髪にするような生徒と言うのは、少数派でかつ(まあ自分も含めて)問題児が多く、あえて茶髪にしているのだから注意されて染めなおすことになっても、逸脱している自覚はあるのでまあしょうがないなと言った雰囲気もあったかと思います。

対して今では髪を明るくすると言うのは、若い女性にとってごく普通の一般的なファッションの一部であって、特に問題児でも問題行動でもなんでもなくなっています。それは高校生と言えど同様です。

そのような状況で、茶髪禁止というのはある意味時代錯誤で実態とかけ離れた規則でもあるわけですが、そこで規則を盾に型に嵌める指導をしようとすると、特に近年は以下のような反応が返って来る傾向にあります。

「なぜ誰々は良いのに私はダメなのか?」という、例外を許さない主張です。そこには、グレーの存在を認められず白黒どちらかでないと理解できない教育の成果がもれなくついて来ます。

本来、髪の色というのは境目のないグラデーションであり、どこから黒でどこから茶色かというのは、区別のしようがありません。すでに白髪染めにお世話になっている世代としては、髪染めの黒にも人工物のようになってしまう本当の真っ黒と自然な黒があることを知っています。自然な黒はほんの少し茶色が入っていますので、厳密には黒ではありません。では、それよりもう一段階明るくすると黒ではないのか?自然な黒は黒と認めるのか?という、誰も答えの出せない問題になってしまいます。

特に、以前とは違って、少し明るくしただけという人が多い時代には、「どこから茶髪なのか問題」は、教師が考えている以上に判断が難しい問題です。明確な境界がない以上、客観的には判断などできないのですから、茶髪を問題にすること自体が馬鹿げています。

やるならばまちなみや広告物の色彩規制のように、厳密な客観的指標に基づく基準を作り、計測して判断するくらいの覚悟が必要です。限りなく黒髪に近いブリーチから、ほとんど金髪のようなものまで、茶髪と一括りにしていては誰も納得できません。

主観的な基準しかないルールを強制するからこそ、なおさら「なぜ誰々は良くて自分だけダメなのか?」と言う話になるのです。生徒たちは、ほとんど黒に見えてもブリーチかけている友人のことくらい知っています。

さらにそこに今のご時世は場合によっては保護者も出て来たりするので、話はさらにややこしくなります。結果として、馬鹿げたルールを守ろうとするがゆえに、なんとか証明書を出すといったさらに馬鹿げたルールができるという、まさに日本のダメ制度の王道を行く仕組みが出来上がるわけです。まるで大学改革のようです。

黒髪の範囲の厳密な定義と、厳格に測定する手段なくしてなくして、茶髪禁止などするべきではありません。そもそも、一人一人異なる髪の色のような問題にルールなど作る必要はないのです。

黒髪の集団でなければ教室の秩序を維持できないような教師は、もともと教師としての能力に問題があるでしょう。問題があるからこそ地毛証明書のような解決策を編み出すという話もあります。ひとりひとりの違いに向き合ったきめ細かな教育などというのは、現実問題としては夢のまた夢です。

いわゆる教育困難校では、ルールを力で強制しなければ秩序を維持できないという現実もあることは理解しています。しかし、そのような学校であればなおさら、髪の色のような教育環境を維持する上でほとんど意味のないルールは廃止して、少数の本当に守るべきルールを守らせるところに注力すべきでしょう。もちろん、髪の色が変わると、周りの何も知らない大人たちには荒れていた学校があたかも改善したように見えるのは大きなメリットなのかもしれませんが、取り組むことの優先順位が間違っています。

高等教育無償化は可能か

なぜか憲法改正に絡んで想定外の方向から高等教育無償化の話が浮上してきた。現実問題として、財政的にそれは可能だろうか?公平性をどう担保するか?今回はそういった点を考えてみることにする。

 

まず、国家予算の大枠を見ておく。総額は約100兆円弱。このうち、社会保障費が30兆円強あり、文教科学技術振興費は概ね5兆円規模である。

これを前提とすることなく議論しても意味がない。

 

次に学生数の概況について。高等教育機関で学ぶ学生数は概ね360万人程度、そのうち1/5にあたる約60万人が国立大学に在籍している。残りは私立での大学や短大、専修学校である。

 

国立大学の授業料収入は総額は約3700億円となっている。国の予算の0.4%であり、これを無償化するのは充分可能であると言えるだろう。しかし、国立大学に通うのは、高等教育機関で学ぶ学生の2割に過ぎない。

高校の無償化と同じ方式で、私立の大学・短大・専修学校に通う学生に国立大学の授業料相当分を支援するとすると、1.8兆円を超える予算が必要となる。うち1.5兆円が私立向けであり、なかなか厳しい金額であろう。

 

ところで、無償化より奨学金をチャラにしたほうが効果があるのではという指摘があり、それはなかなか興味深いと思う。

 

 

学生支援機構で見てみると、貸出残高は10兆円に届くかどうかというところのようであり、毎年1兆円強が貸し出されている。

1兆円強というのは国立大学の運営費交付金とほぼ同じ規模である。

貸出残高をチャラにするための10兆円は一度限りの財政出動であり、それが解消してしまえば、あとは年間1兆円程度で給付型の奨学金を運用できるということになる。

 

給付型奨学金の実現と、高等教育の無償化を両立することはなかなか難しいであろうし、現実的ではないだろう。実際問題、高等教育を無償で受けられることになれば、奨学金のニーズもかなり減ることだろう。

ここで、一つの考え方として、国立の高等教育機関における授業料は無償化し、公立ならびに私立の高等教育機関向けに給付型の奨学金を創設するという選択があり得るだろう。

私立大学向けに関しては実質的な所得制限であると考えればよい。1.5兆円かかるところ、1兆円でカバーできるところまでは給付型奨学金で支援し、それ以上の高所得者層は自己負担という構図となる。

公立については、必要に応じて、設置者となっている自治体ごとに住民向けの措置がとられれば良いだろう。

概ね妥当かつ現実的な仕組みではないだろうか。

 

国立の高等教育機関の無償化に4000億円、給付型の奨学金に1.1兆円、あわせて1.5兆円で高等教育の「擬似的な」無償化が実現する。

国の予算の1.5%である。

一度限りの10兆円をどうするか、という問題の解決は簡単ではなく、ハードルは高いが、その気になれば実現は夢物語とも言えないと思うが、いかがだろうか。

 

もちろん、なぜ、私立の高等教育機関だけ所得制限がかかるのか、という指摘はあるだろう。しかし、まったく同様の支援を求めるということになれば、もはや私立大学としての存在意義はない。高等教育機関はすべて国立あるいは公立にしてしまえということになる。それはそれでひとつの方法であるとは思う。経営判断として、また、多様な支援の獲得も見据えて、公立への移管が進むならそれも良いだろう。だが、筆者の立場としては、基本的には高等教育機関としての多様性の確保を優先したいと思う。

 

【追記】

高等学校の無償化と同様に、4年を超えて在学する場合や、すでに学士を持っていて二つ目の学士を取得するために入学といったケースでは、無償化の対象とせず自己負担とするのは当然だろう。そうでなければ高学歴層が殺到することは目に見えている。

相応の待遇

今回の話題は、国立大学に所属する教員の待遇に関するものであり、その意味でいつにも増して完全なるポジショントークである。そのことを事前にお知らせしておく。

先日、一橋大学から香港科技大学に移籍する方が話題となった。年収は倍増。ファカルティハウスなど、生活面での待遇も良いようだ。

それに対して、日本では頭脳流出の危惧とともに、特に国立大学の教員の年収について、いろいろと議論が交わされている。

個人的には、今の年収は特に少ないとは思っていない。昔の国立大学に比較すれば、担当コマ数や雑務が大幅に増えたとはいえ、働き方も真っ黒な民間企業に比べればまだまだ緩やかである。総合的に考えて、多いとも言わないし、もっともらえるならありがたくいただきたいとは思うが、少なくて不満だということはない。

現在の境遇が不満だと思う方はどんどん海外に出れば良いと思う。外に出て競争するだけの能力もないのに給料が少なくて不満だという残念な方も少なくないと思うが、そのような方々には早く大学を辞めていただくことが後進のためである。

むしろ、現状に対する不満があるとすれば、給与以外の扱いに関する部分にある。

 

現状、その最たるものが出張である。

 

一般に、出張時の宿泊費については一律に金額が決められている。実費精算であれば良いかもしれないが、実費精算ではない大学の方が多数なのではないかと思われる。定額支給であれば、安い宿に泊まれば小遣いが浮いて良いと考える人もいるかもしれないが、現実的には東京や大阪のような大都市や、あるいは京都のような観光都市では、ビジネスホテルでさえ規定の宿泊費で賄うことができなくなっている。もはやカプセルホテルかゲストハウスかといった状況であり、大学の教員の扱いとしてそれで良いのか?とは思う。結局のところ、差額分は自腹で支出してそれなりの宿泊施設に泊まるということになるわけだが、少なくとも外部資金に関しては、基本的に実費精算として、現状の規定の1.5倍から都市によっては2倍程度までは支出できるようにしてもらいたい。

何もスイートルームに宿泊させろと要求しているわけではないし、予算の残額をにらみながら妥当と思われる選択をするに過ぎない。

 

また、研究発表等で海外に出張する場合にはより深刻で、基本的にはエコノミークラスにしか乗ることができない大学も多い。これもまた先日のニュースでみなさん良く理解されたとは思うが、エコノミークラスの乗客というのは、航空会社からはそれほど人間扱いされてはいないのが実態である。エコノミーに乗るくらいならLCCを選べと言わんばかりのサービスになって来ている。昨今は家族全員でビジネスクラスという姿も普通に見られるようになっており、ビジネスクラスとエコノミークラスの座席数を比較しても、ビジネスクラス渡航するというのは、十数年くらい前までのように特別なことではなくなった。LLCでない一般のエアラインとしては、エコノミークラスは無くて良いというのが正直なところであろう。

そのような状況をふまえて、大学の研究者が業務として研究成果の発表に行く際には、ビジネスクラスを選択することを共通ルールとして許容してもらいたいと思う。もちろん、予算には限りがあるわけで、自らの判断でエコノミーに乗るのはもちろんそれで構わない。これもホテルと同様、ファーストクラスに乗せろと要求しているのではなく、選択肢を持てるようにしてもらいたいということである。また、飛行機に関してはホテルとは異なり、差額を自腹を出してビジネスクラスで行くということが難しかったりするので、なおさらである。

 

また、こうした宿泊費や航空券のクラスの制約というのは、われわれ当事者のポジショントークという側面もさることながら、日本の大学全体の評価にも関わる問題でもあったりする。

恐ろしいことに、こうした規定は、海外からゲストを呼ぶ場合にも同じ条件が課せられたりする。従って、海外からゲストを招聘しようにも、下手をすると、飛行機はエコノミークラスで、宿泊先はアパホテル東横インクラスということにもなりかねない。悪い冗談のようにしか聞こえないが、現実である。そのような条件で一体どのようなゲストがわざわざ来てくれるというのだろうか。当然、そのような扱いでお呼びできるわけもないことから、実際にはできる手立てを駆使して失礼のないようなかたちでお招きするのだが、最初から正規の手続きで相応の待遇を提供できる方が良いに決まっている。日本の大学は、世界と競走する舞台に立とうにも、すでにスタートラインがはるか後方にある。

 

もちろん、雑務が減ることも重要なのだが、自分自身に関していえば、このあたりの運用が改善されると、不満感はかなり軽減されると思う。給料は上がらなくても構わないが、このあたりの運用の改善は望みたい。 

第2集団のジレンマ

国内の大学の上位集団を形成しているのは、国際的な舞台で競争することが求められる国立大学なのであるが、ランキング的なことで言えば国内の先頭あたりににいる旧七帝大と東工大に続く位置にいる、いわゆる第2集団、第3集団の大学をどうするのかというのが課題である。

概ね旧官立をベースとした総合大学である、筑波(天下りで話題の茨城はここではお呼びでない)、神戸、広島あたり、少しあいて千葉、新潟、金沢、岡山、熊本といったあたりになるだろうか。

このあたりの大学は、端っこの辛うじて旧帝大の2校とともに、常に大学改革への意気込みを試される位置にある。その結果、文科省に尻尾を振りつつ学内をしばき上げるといった対応を取らざるを得ないわけだが、ここに第2集団ならではのジレンマがある。

先だって一橋から香港科技大へ移籍する研究者の一連のツイートが話題となったが、スーパーグローバルであれなんであれ、大学としてグローバルに競争するということは、グローバルな研究者の移籍市場・争奪戦にも嫌が応にも参入することになるという自覚が必要である。ではあるが、個々の大学はもちろん、文科省にもそのような自覚は無く、そのための制度的な基盤も無いということが問題である。結果的に、優秀な研究者を抱えていればいるほど、草刈り場になる危機にある。

実際、これら第2集団の大学から旧帝大へ移籍する研究者は少なくないのが現実であるし、優秀であればあるほど、旧帝大を飛び越えて海外へと移籍する研究者も増えるだろう。旧帝大と言えど、国際的な研究者の獲得合戦となるとその競争力は疑問である。

結局、今のランキング対策を見据えた評価基準で高い評価を受けられる研究者が活躍すればするほど、引き抜かれる可能性は高まるが、限られた資金では積極的に引き止める術はなく、下手をするとOBでなければ残ってもらえず、大学としての質が低下するという事態が待っているという未来は容易に想像できてしまう。

グローバルな大学間競争で勝ち抜くために、新しい指定国立大学法人では給与体系も新たに用意できるとは言え、一流の頭脳を呼ぶ前に学内の期待の星はことごとく流出していたということになれば、ランキングの上昇など夢のまた夢である。

特に、2番手集団の財政規模であれば、学内の役立たずな給料泥棒を排除する必要性や有効性は理解できる。しかし、現状で行われている施策は、有望な人材の移籍意欲を高める効果しかないという事実も受け止める必要があろう。結果的に、移籍できる優秀な人材は流出、比較劣位としての給料泥棒だけが残留し、第2集団は揃って世界のトップから取り残されるという事態を招くだろう。

引き抜きにカウンターオファーをしようにも、その手段はあまりに限定的である。例えば、テニュアトラックにある助教や講師に対して、できる対処があるとすれば、任期の繰り上げ終了とそれに伴うテニュアポストの提供くらいしかない。給料を上げる余地がほとんどない中では、昇進込みのオファーをしたいところではあるが、そうなると一気に実現に向けたハードルが上がってしまう。

まずは、トップ研究者の招聘より先に、足元の流出対策をはかることが国内の大学にとって必要なことであろう。それは国内ではトップに位置する旧帝大と言えど、国際的にはこの第2集団というべき位置であるからには、なおさら重要である。

 

自殺をめぐる不都合な真実の話

あまり気が向かない話題ではあるが、書かないわけにもいかないだろう。一橋大学のロースクールでの同性愛のアウティングに端を発する自殺について、本日開かれた口頭弁論を踏まえた記事が出ていた。

基本的に自殺したアウティングの被害者側に立った記事であるとはいえ、書かれている内容そのものはひどい話である。アウティングから自殺に至る経緯はこれまでもしばしば示されているので割愛するが、一橋大学の対応はまったく救いのないものだ。

裁判の結果がこの後どうなるかはさておき、国立大学の暗部が描かれている。

被害者であるロースクールの大学院生Aさんは、たびたび一橋大学のハラスメント窓口や保健センター、教員に相談していたという。

それにも関わらず、一橋大学の主張はなかなか大胆であると思う。

Aの死は突発的な自殺行為によってもたらされたものであって、被告大学の様々な配慮にもかかわらず防止することができなかったことは遺憾ではあるが、人知の及ぶところではない

また、新たに明らかになったこととして、

当事者であるロースクールの教員ですら、裁判になるまで、この事件のことを知らされていませんでした。ご家族が勇気を振り絞って立ち上がらなければ、永遠にお蔵入りするところでした

とのことである。分かっていてもこれはすごい。少なくとも、一橋大学には、こうした事件が起きてしまったことを教訓として、次の事件を防ぐために活かそうという意識は皆無であるということを示している。

ただしかし、学生の自殺した事実を周知・共有しないという姿勢は、必ずしも一橋大学に限ったものでもないということも指摘しておく必要はあるだろう。都心部から郊外に移転した大学をはじめとする一部の国立大学で、自殺者が少なくないことは大学の関係者の間ではよく知られている。しかし、これらの大学では、ほかの学生への配慮と言う建前もあり、基本的には自殺者が出た事実を公表すると言ったことはないのが一般的である。もちろん、学外にも聞こえてくるような話題であるからには、噂としては学生にも教員にも広まるのは当然だとは思うが、学内でも公式なルートで自殺したという事実が共有されることはないようだ。大学側としても、積極的にアピールするような内容ではないというのもわかる。

しかし、不祥事についてもプレスリリースが出されるようになった今、各大学は在学生の自殺を含む事故についてきちんと公表するべきであると思う。そうすることで、一部の大学に目立って多く発生していることや、少なからず環境に左右されているであろうことも見えてくるだろう。

自殺者が相対的に多いという事実は、大学にとっては不都合な真実ではあるが、受験生にとっては知っておくべき情報である。大学の広報には決して出てこないが、大学を選択する際に考慮すべき(したがって自ら積極的に情報収集するべき)ポイントであると思う。

 

研究費を誰にどのように支給するべきか

ここ数日、職業研究者としての能力・資質と競争的研究資金の獲得、機関が支給する研究費との関係について、考えていたことを整理してみたい。

大学の目指す方向性の違いの明確化だけでなく、大学教員もまた研究中心の人、教育中心の人、社会貢献中心の人、学内行政中心の人と、役割が明確になっていくのはやむを得ないことだろう。

 ToruOga( o ̄▽)o<※ on Twitter: "やはり研究トラックと教育トラック、それからURA業務を統括するような管理部門のトラックは分けたほうが良いと思うのだけど。"

そもそも人には向き不向きというものがある。やりたいことをやるなとは言わないが、組織としてはより適性の高い分野で多くの成果を出してもらった方が良い。実際、東京近辺には自分で重点を置くべきところを決めてそれによって評価するという国立大学法人もあるようだ。

nasastar on Twitter: "@toruoga0916 ちなみに教育、運営、研究などのエフォートの配分と業績評価の重み付けが連動していたりもします。なので僕のような働き方だと研究の比重低めで、運営へのコミットをより評価してもらうような形も可。職位で大枠は決まってるが、上長との相談でどこを重くするのかも弄れるのです"

正しい方向性だと思う。

科研費については、来年度からは年齢ではなく採用からの年数に応じて若手に申請できるようになるという話もある。そのような条件であればなおさら、科研の若手を一度も獲れないまま、若手の申請資格を失い、その後も基盤Cさえ獲れないようであれば、やはり職業研究者としての資質・能力に疑問符がつくことは避けられないだろう。

当然のことながら、科研を獲るというのは研究代表者として採択されるという意味である。研究者としての資質や能力を判断する上では、分担者では意味がない。

もちろん、研究者としての資質・能力に疑問符がつくからといって、それで研究をするなというのは行き過ぎだとは思うが、無条件支給の研究費は職階に応じて順次削減して良いだろう。外部資金を獲れない教授の研究費は当然ゼロで良い。

文系でいわゆる学術論文的な業績がないのに教授になるというような方々であれば、おそらく一定の知名度があって講演や執筆で対価を得られているということであろうし、それはそれで良いだろう。

所属する研究者に対して、機関が配分する研究費のあり方としては、まずは任期付やテニュアトラックの若手に対しては無条件で一定額の支給を保証すべきである。研究に関してもスタートアップ期間であり、競争的資金を獲得できるだけの研究業績を積み上げられるようサポートすることは必要だ。

それ以外の研究者に対しては、無条件で支給する研究費は基本的にはゼロであっても構わない。外部の競争的研究資金の獲得具合に応じて配分すれば公平だろう。学内で申請・審査をすることなく、学外の第三者のピアレビューの結果に従って配分するのは組織の手間も研究者の手間も削減できるので合理的である。

そもそも、兼業収入ではなく、外部資金として研究費等を獲得した研究者は、間接経費として、それなりの金額を所属機関に対してもたらしている。中には間接経費の一部を研究者に還元している機関もあるが、研究費の配分において優遇されるのは当然である。

科研に関しては、それぞれ自らの意思で選んだ分野でその研究の価値をピアレビューされる。多くの研究助成も、対象となる分野はかなり絞り込まれている。そのような専門的な分野においてさえ長年にわたって評価されないのであれば、それは自らの研究者としての資質・能力をよく考えるべきであるし、評価される分野を研究以外に見出す方がよい。もちろん、趣味で研究を継続することは誰も否定などしていない。いつまでも研究者面で研究費を要求するのはやめてもらいたいというだけの話なのである。あなたが無駄にする研究費でより多くの成果を生み出せる若手はいくらでもいるのだ。

競争的でない競争的資金を巡るあれこれ

しばらく駄文を書く暇のないままに新学期になってしまった。4月といえば、科研費の採否が開示される日である。昨年度が最終年度であったので、獲れなければ研究費が不足することは目に見えている。落ちる予定などあるわけはなく、結果的には採択されたわけだが、必ず通る保証もあるはずはないのであって、結果を見るまでは安心はできない。

というところで、日本の競争的資金などそれほど競争的ではないというツイートを目にした。

TAL on Twitter: "日本の「競争的資金」は実はそれほど「競争的」ではない。例えば若い研究者でもPIになって研究費をけっこう簡単に取って来られるがイギリスだと若い研究者がPIでグラントをとるハードルはずっと高い。正直言って日本で「競争的資金が悪い」と言ってる連中は世界に出たらすぐに死んでしまうと思う。"

研究者レベルで申請する競争的資金については指摘の通りなのだが、競争的資金の比率が増やされているという話は機関向けについても同様であるので、競争的資金が悪いという話しはあながち的外れでもない。

と言うのも、文部科学省としては予算確保のためには財務省を説得しなければならないわけで、予算配分に対する成果の見える化はしなければならない。そこで大型の機関向け補助金が投入されるわけだが、文科省としても運営費交付金削減の埋め合わせをしなければならないことは明らかなわけで、こうした大型の機関向け競争的資金というのは、ある程度出来レースと相場が決まっている。

背伸びして申請する価値のある事業も無いわけではないが、最初からお呼びでないような事業も多い。

天下りを受け入れなかったからスーパーグローバルに落ちたというような寝ぼけた話しをするジャーナリスト氏もいるようだが、天下りの学長を受け入れたところで茨城大学がスーパーグローバルをとるような事態はそもそも想定されていないのである。そのためのCOCなのだ。

もちろん、論功行賞で資金が投入されることも無いわけではない。真っ先に文系学部を再編してデータサイエンス系の新学部を作ると宣言し、「数理及びデータサイエンスに係る教育強化」の拠点校に選定された滋賀大学などはその好例であろう。

というわけで、機関向けの競争的資金というのはだいたいにおいて決まりきった話であるので、教員の限られたリソースを無駄に消費するような分厚い申請書など書かせたりせずに配分するようにすれば良いのである。

指定国立法人の申請には随分厳しい条件が付されていたが、良い方策と言える。そのように事前に申請のための条件でフィルターにかけておけば良いだけの話なのである。過去の成果に基づいて申請条件を厳しく定めておくことで、どのような成果を上げている大学を支援するかというビジョンを示しつつ、採択校のレベルを担保し、競争的資金の申請に必要となるエネルギーを大幅に削減するべきである。

さらにタチが悪いのは、こうした大型の機関向け資金の目に見える成果として、新学部や研究科の設置を伴う「改革」が求められることも少なくないことだろう。おそらく、多くの大学においては、競争的資金の申請手続き以上に、新学部・研究科の設置申請のための膨大な事務手続こそが本当の悪夢である。

大型の資金が投入されるたびにこのような負担を伴う改革を頻繁に行わなければならないところに、昨今の日本の大学を巡る問題の要因がある。そもそもころころ頻繁に変わるような変化は改革ではない。単なる混乱と呼ぶべき状態である。設置申請やアフターケア、第三者評価のための手続きの簡略化は、改革疲れの大学を大いに助けるだろう。とは言え、審査そのものをあまりに緩くしてしまうと、わけのわからない大学がますます増えてしまうだけなので、書類作成にかかるリソースを削減できる方策を採用してもらいたい。

そうした事務処理負担の軽減を実現できれば、運営費交付金の削減と競争的資金への移行も、もう少し受け入れられやすいというものだろう。