スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

限りなく黒髪にちかいブリーチ

大阪の高校で生まれつきの茶髪に黒染めを強制された件で裁判になって海外でも話題になり、スーパーグローバルハイスクール事業を所轄する文部科学省も国際的な知名度の向上にさぞお喜びのことかと存じます。

このような指導がひろがった背景として、今回は大阪の高校であったことで、維新府政の教育への介入どうこうという論調も見かけますが、正直あまり関係ないと思うのです。まったく無関係であるとも言いませんが。

高校で強制的に黒髪に染められたことに対する訴訟や人権救済の申し立てなどは、橋下府政の登場前の2000年台半ばから出てきています。

以下の例は訴訟についてですが、下部に参考として人権救済の申し立てなどの事例も掲載されています。

注目の教育裁判例(2012年12月)

こうした司法に訴えられた事例を引くまでもなく、21世紀に入る前の、それこそ我々が高校生であった時代から、茶髪にした生徒が黒く染められたと言った話しはありましたので、何も最近突然出てきた話でもないはずです。

問題は、なぜ最近になって話がややこしくなって来たのかということにあります。

一つは体罰に対する考え方の変化で、昔はしょっちゅう目にしていた体罰も、ほぼ目にしなくなっていますし、ただちに社会問題になります。ここでは無理やり髪を染める行為が体罰であるかどうかという点が争点となり、社会問題として取り上げられやすくなったと言えます。

もう一つ、生徒や保護者の姿勢の変化もあります。

我々が高校生の頃、髪をわざわざ茶髪にするような生徒と言うのは、少数派でかつ(まあ自分も含めて)問題児が多く、あえて茶髪にしているのだから注意されて染めなおすことになっても、逸脱している自覚はあるのでまあしょうがないなと言った雰囲気もあったかと思います。

対して今では髪を明るくすると言うのは、若い女性にとってごく普通の一般的なファッションの一部であって、特に問題児でも問題行動でもなんでもなくなっています。それは高校生と言えど同様です。

そのような状況で、茶髪禁止というのはある意味時代錯誤で実態とかけ離れた規則でもあるわけですが、そこで規則を盾に型に嵌める指導をしようとすると、特に近年は以下のような反応が返って来る傾向にあります。

「なぜ誰々は良いのに私はダメなのか?」という、例外を許さない主張です。そこには、グレーの存在を認められず白黒どちらかでないと理解できない教育の成果がもれなくついて来ます。

本来、髪の色というのは境目のないグラデーションであり、どこから黒でどこから茶色かというのは、区別のしようがありません。すでに白髪染めにお世話になっている世代としては、髪染めの黒にも人工物のようになってしまう本当の真っ黒と自然な黒があることを知っています。自然な黒はほんの少し茶色が入っていますので、厳密には黒ではありません。では、それよりもう一段階明るくすると黒ではないのか?自然な黒は黒と認めるのか?という、誰も答えの出せない問題になってしまいます。

特に、以前とは違って、少し明るくしただけという人が多い時代には、「どこから茶髪なのか問題」は、教師が考えている以上に判断が難しい問題です。明確な境界がない以上、客観的には判断などできないのですから、茶髪を問題にすること自体が馬鹿げています。

やるならばまちなみや広告物の色彩規制のように、厳密な客観的指標に基づく基準を作り、計測して判断するくらいの覚悟が必要です。限りなく黒髪に近いブリーチから、ほとんど金髪のようなものまで、茶髪と一括りにしていては誰も納得できません。

主観的な基準しかないルールを強制するからこそ、なおさら「なぜ誰々は良くて自分だけダメなのか?」と言う話になるのです。生徒たちは、ほとんど黒に見えてもブリーチかけている友人のことくらい知っています。

さらにそこに今のご時世は場合によっては保護者も出て来たりするので、話はさらにややこしくなります。結果として、馬鹿げたルールを守ろうとするがゆえに、なんとか証明書を出すといったさらに馬鹿げたルールができるという、まさに日本のダメ制度の王道を行く仕組みが出来上がるわけです。まるで大学改革のようです。

黒髪の範囲の厳密な定義と、厳格に測定する手段なくしてなくして、茶髪禁止などするべきではありません。そもそも、一人一人異なる髪の色のような問題にルールなど作る必要はないのです。

黒髪の集団でなければ教室の秩序を維持できないような教師は、もともと教師としての能力に問題があるでしょう。問題があるからこそ地毛証明書のような解決策を編み出すという話もあります。ひとりひとりの違いに向き合ったきめ細かな教育などというのは、現実問題としては夢のまた夢です。

いわゆる教育困難校では、ルールを力で強制しなければ秩序を維持できないという現実もあることは理解しています。しかし、そのような学校であればなおさら、髪の色のような教育環境を維持する上でほとんど意味のないルールは廃止して、少数の本当に守るべきルールを守らせるところに注力すべきでしょう。もちろん、髪の色が変わると、周りの何も知らない大人たちには荒れていた学校があたかも改善したように見えるのは大きなメリットなのかもしれませんが、取り組むことの優先順位が間違っています。