スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

【続】文系大学教育は仕事の役に立つのか?

昨日の感想文のあと、twitterで補完したことのまとめと、そのまた補完である。

元はといえば、この本について書かれたブログを移動中に目にしたので、それをもとに気になるところを書いたのだが、ブログをリンクするくらいのつもりでRTしたところ、フォローもしていないのに突然メンション飛ばされたことでご気分を害してしまったようで申し訳ない。

当該記事は以下のものである。

blog.livedoor.jp

この記事で取り上げられていた、3章と5章の記述をもとに、批判的なコメントを書いたのだが、twitterでは限界もあり、批判の意図が理解されず誤解も招いたところもあるかもしれないので、もう少し詳細に記しておく。

 昨日の記事に記した通り、これらの章は4章や8、9章に比較すれば、本書の目的に沿った内容であり、その点は評価している。

まず、上記ブログによる3章での記述の引用から。

社会学を除いて,大学時代に授業内外で架橋的に学んだり,授業内容を授業間で関連づけて理解していた者……ほど,大学での学びを仕事で活用している

なるほど、われわれの肌感覚とも一致する結果が得られたことは喜ばしく、重要な成果である。しかし、最初の一言が気になる。

この章を通じて、延々と「社会学を除いて、」という枕詞が頻繁に登場する。

twitterにも書いた通り、この文章だけを読めば、2通りに読むことができそうである。

文系の学問の中でも特に社会学は、大学での学びを仕事で活用していないという意味において、役に立たない中の役に立たない分野であるという解釈。

これが笑えないわけはない。あるいはもう一つ。

社会学を学ぶ者に限っては、授業内外で架橋的に学んだり、授業内容を他の授業内容と関連づけることなく学んだ者の方が、大学での学びを仕事に活用している、という解釈。

これも笑える話だろう。

以上2つがどちらに取っても笑える、という話である。

ただ、社会学の名誉のために冷静に考えると、もう一つの解釈があり得る。

社会学の学びは、大学時代に授業内外で架橋的に学んだり、授業内容を授業間で関連づけて理解するといった条件を必要とすることなく、大学での学びを仕事に活用している、という解釈である。

データが語るとおりにもし仮にそうであるとすればそれはそれで評価すべきことなのかもしれないが、おそらくそうではない。

本章の注には、社会学がやや異なる傾向を示している要因について、サンプル数が少ないことが影響していると考えられるとの見解が示されている。そうしてそこから結論まで延々と「社会学を除き、」という枕詞が多用される。単にサンプル数が少ないので検証できないというだけ話のところなのではあるが、まるで社会学だけは異なる傾向を示すなんらかの要因が社会学の教育そのものにあるかのような印象も与える(もちろん、サンプル数を増やそうとはしていない以上、その可能性も否定はできない)。

延々と「社会学を除き、」という枕詞を使い続けることは間違った姿勢とは言えないが、大きな誤解を招きかねない。

また、この社会学だけが異なる結果に出た要因としては、著者の挙げているサンプル数の問題だけでなく、2章でも少し触れられているように、社会科学系の分野において、実態に比べて圧倒的に女性の比率が高いことが回答の傾向に影響している可能性も考えられる。いずれにしても、まともな考察を行うためには、分析を進める過程で明らかになった問題意識に従って、追加サンプルを集める必要があったであろう。

 

5章については以下の引用についてコメントした。

大学での授業経験もまた主観的な職業的レリバンスに無視しえない影響を与えていた。特徴的な授業経験であるディスカッション型(議論やグループワークなど学生が参加する機会がある授業)・レリバンス型(学んでいる内容と将来の関わりについて考えられる授業)のいずれに関しても,主観的な職業的レリバンスにポジティブな影響を与えていた

学んでいる内容と将来の関わりについて考えられる授業を受けた者は、大学で学んだことと仕事の関わりを主観的に認識するようになるという結果は、専門外の私には当たり前過ぎて調査する必要さえ感じないが、それをあえて行ったことに価値があるのかも知れない。やはりキャリア教育は提供した方が良いことをデータは示している。

大学の教員には苦手意識も強く、マスプロ大学ではなかなか難しいかもしれないディスカッション型の授業(それはいわゆる「アクティブラーニング」と称されるものが該当すると思われるが)の有効性も含めて、まさに文部科学省の進めている大学の教育改革を後押しする結論である。

編者の意図からすると、これはやや不本意であろう。

そして、注意が必要なのは、この分析結果を導いた母集団は大学で文系教育を受けた社会人であるものの、この分析結果は、文系教育が役に立つかどうかとはまた異なる知見である、という点である。

例えば、理系に比べて、教育学部を除けばもともとディスカッション型やレリバンス型の授業が少ない傾向のある文系の大学教育においては、理系に比べてディスカッション型やレリバンス型の授業を経験したことによる影響がより大きく見られるということであれば、文系教育の学びを仕事に結びつける上で特に重要であるとも言える。しかしここでは比較対象がないので、一般に大学教育においては、キャリア教育やディスカッション型の授業形態を取り入れたほうが、仕事に役に立っている感覚を持つようになる、という話である。

したがって、文系の教育においても、キャリア教育やディスカッション型の授業形態を積極的に取り入れることで、仕事に役に立っている感覚を持てるようになる可能性が高まるので、やらないよりはやった方が良いということであるが、それ以上のものではなく、それによって理系の教育と比較して仕事に役に立つ感覚に優れるレベルになるのか、それでもなお遠く及ばないのか、そのあたりは何もわからない。

さらには著者自身も指摘するように、第三者が文系教育が仕事に役に立っていると判断するかかどうかの判断とはまったく別のものである。

加えて、この章では一貫して本書の目的にしたがい、なんとか文系教育が役に立つのだ、という主張を補強しようと試みる。

その結果、データはきちんと示してはいるものの、そのデータをもとに論じているにしてはややミスリードを招くような表現が気になって仕方がない。

例えば、twitterでも紹介した同じ著者の学会発表の梗概では、分析結果において、

大学時代の経験が「現職で役立っている」と感じている文系大卒者は少なく、全ての項目で肯定率が半数を下回っていることがわかる。特に、専門科目による役立ち感は低い。

大学教育が現職で役立っているのは誰か?

と断じており、文系の教育が役に立っている感覚には明確に否定的な立場である。実際、データを見ればその解釈に疑いの余地はない。

それが基本的にこの研究がベースとなっているはずの本章では、学会発表とは異なり、多くの一般読者やメディアへの影響も考慮しているのか、文系の教育が役に立つ可能性におおいに前向きである。結論に曰く、

以上の分析結果からみえてくることは、人文社会系の大学教育を経験した人びとの主観としては、人文社会系の大学教育が「完全に」役に立っていないわけではないということである。もちろん、調査データの特性を考慮してもなお、人文社会系の大学教育の「全てが」役立っていないと感じている層は大多数を占めており重要な課題である。しかしながら繰り返しにはなるが、なんらかの形では役立っていると感じている層も一定数存在しており、近年の知識社会化の中で重要性が増している知識集約型の産業(第4次産業)に従事する人文社会系出身者の主観的な職業レリバンスが高いことも事実である。授業経験自体が主観的な職業的レリバンスに無視できない影響を与えていることも踏まえれば、「人文社会系は役に立たないだろう」という漠然とした大学教育のイメージから議論するのは適切ではなく、人文社会系の大学教育が役立っている(役立っていないと)部分はどこなのかを検証し、大学教育ができることを議論していくこともまた今後の重要な課題となるだろう。

人文科学系の大学教育が何らかの形で役に立っている部分もある点を【一度ならず二度繰り返し】強調しており、同じデータをもとにした先の分析結果とはずいぶんと異なる印象を与えるではないか。

また、自らのデータが「人文社会系の大学教育の『全てが』役立っていないと感じている層は大多数を占めて」いることを示している事実に触れておきながら、「『人文社会系は役に立たないだろう』という漠然とした大学教育のイメージから議論するのは適切ではなく」などと、漠然としたイメージであると断じているのはなぜなのか?

もしや、漠然としたイメージではなく、厳然とした事実として人文社会系は役に立たないという認識から議論すべきである、というのが著者の主張なのだろうか?そうであれば誤解を招かないように、そのように書くべきである。だがしかし、著者の意図はそうではないだろう。データに基づく議論はいったいどこに行ってしまったのか?

また、「人文社会系の大学教育が役立っている(役立っていない)部分はどこなのかを検証」するのも結構なことだが、圧倒的に検証する必要があるのは、【わずかな役立っている部分】ではなく、【大部分を占めるであろう役立っていない部分】であることに疑問の余地はない。強調すべき点が逆なのだ。まるで役に立っている部分が大半であり、役に立っていない部分はごく一部であるかのような印象を与える。

おそらくデータをきちんと読み込んで判断することのない多くの一般読者の目に触れる書籍において、このような印象操作とも言える記述が平気でなされることが、査読のされない日本の学術出版物の少なくない部分が信用に値しないし、業績にするべきでもないと考える理由にもなっている。

読んだらなおさら役に立たないと言われてしまうのではないか?という私のtwitterでの発言は、不当なものだろうか?

 

さらに、教育学部の特殊な事情がこの章を含む複数の著者の主張を補強するのに少なからず影響を与えているが、twitterでも指摘したとおり、旧帝大を除く少なくない教員養成系の教育学部には、理科や算数・数学に関する学問分野が当然存在している。この調査サンプルの教育学出身の社会人の出身大学は113大学にのぼる。おそらく純粋に文系といえないサンプルが含まれていると考えるのが普通だろう。文理融合型であるという教育学部の特殊性については、この本の中で殆ど触れられていないが、分析結果に少なくない影響を与えているのではないか?という疑問は解消されない。

もっとも、編者自ら認めているところではあるが、教育学部の特殊性以前に、この本の研究プロジェクトが扱っている調査サンプル自体が微妙過ぎるという指摘はすでにしているとおりである。

 

長くなりすぎたのでひとまずこのあたりで。