スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

大学教員の世代の壁

「文系の危機」にとどまらず、昨今の大学を巡る状況については、大学教員のあいだで明らかな世代間の差、あるいは壁を見て取ることができる。

 それはおそらく、純粋培養アカデミシャンの減少の影響が大きいであろう。理工系学部ではもうすでにずいぶん前から、そして専門職大学院が立て続けに設立された社会学系の分野でも近年急速に、民間での実務経験のある実務家教員の採用が活発になった。

こうした民間での勤務経験を経て着任した大学教員は、純粋培養アカデミシャンが憎悪するような大学のあるべき姿を脅かす諸々の改革に対して、「もうちょっとうまいやり方はあるだろう」と思うことはあるにせよ、「断固許せん大学に対する挑戦だ」というような見解を持つに至ったりはしないだろう。

また、教員評価についても同様で、評価の手法について何かしら意見することはあれ、教員評価そのものを全否定するようなこともない。自らの勤務状況が第三者から客観的な指標にもとづいて評価され、その評価にしたがって改善できることは日々改善していくというのは、教育研究に携わる以上当然必要な姿勢だろう。

団塊の世代が多数引退しているのは大学界隈でも同様であり、人員の入れ替えに際しては、そのような民間での勤務経験のある大学教員は増加する一方である。その結果、近年新たに採用された教員世代と、旧来型アカデミシャン世代の間に、見えない、しかし越えられない壁があるように思える。

現在はこれからの大学のあり方を探る過渡期であり、そうした壁が一時的にできてしまうのは致し方ないことかもしれないし、時間が解決するのかもしれない。

しかしそれでも、人員の入れ替えの機会があっても民間での勤務経験のある教員が採用される余地があまりない分野があるのだ。人文系である。人文系においてのみ、旧来型のアカデミシャンの世界・価値観が生き残る余地が残されている。世代間の壁ならぬ、人文系の壁とでもいえば良いであろうか。昨今の「国立」大学改革に激しく反対・抵抗している皆様方の多くがこの分野の所属であるのは決して偶然ではない。そもそも、そのことが「国立」大学改革を進めなければならないと考えられている要因の一つであるだろう。

「」付きで国立としているのは、しばしばそうした方々は、「日本の大学で文系が無くなる」などという、自分たちに都合良く拡大解釈した主張を展開するからである。無くなりそうなのは一部の「国立」大学でいろいろな意味においてお荷物となっている文系、特に人文系であって、ドル箱の私立文系が無くなるわけが無い。大学経営には全く関心がないからこそできる主張であろう。

ともあれ、一流の文系アカデミシャンの皆様には私立大学への華麗なキャリアチェンジをお勧めしつつ、納税者の皆様には、これからの国立大学改革ショーを温かく見守っていただきたいものである。