スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

残念な大学教員

出来レースではない公募案件も増えてきた昨今では、比較的少なくなってきたようにも思うが、それでもやはり教育に携わる資質に疑問符がつくような大学教員というのは存在している。

 
なにより学生をバカアホ呼ばわりする教員というのは、救いようがなく、一刻も早くご退職願いたいものである。しかし、信じがたいことかもしれないが、講義で「お前らはバカだからこんなことを言ってもしょうがない」といった発言を平気でするような大学教員というのは実在する。もしその発言内容が事実であるとすれば類は友を呼ぶという以外に言葉が見つからないわけだが、ご本人にそのような自覚のなさそうなことは重ね重ね残念なことである。

そしてこのような残念な教員問題というのは、大衆化に伴う基礎学力の低下とまったく無関係であるとは言わないが、全入時代が訪れる前から、この種の発言をする大学の教員というのは存在していたことから考えると、それほど関係があるわけでもないのである。
 
大学の教員のなかには、果てしなく優秀な学生しか教えられない人がいる。つまるところ放っておけば良い学生なら担当できるということであって、人を育てる力というのは皆無なわけであるが、そのような教員の生きられる場所というのは今後大学には存在しなくっていくだろう。もちろん、そうした教員も、研究能力の有無はまた別の問題であり、本来は純粋の研究機関に所属することが本人にとっても学生にとっても幸せなことだろう。ただ、経験上、教育に熱心な教員というのは研究面でも優秀な人が多いようには思う。
 
先日、福岡教育大学で全教員に附属学校での研修を義務付けるといった話もあり、その件については批判的に伝えられることが多かった。しかしその一方で教育の資質に欠ける大学教員をどうするのか?という問題が存在することから目を背けて良いわけではない。
 
公募時の採用面接でもかなり詳細に教育する力を問われるところはあるし、FDなどの取組も進んできてはいるが、こうした研修制度の限界というのは明らかである。
積極的に研修に参加するのは熱心で上手な人ばかりであり、本当に必要な人に限って我関せずという態度であったりすることから、差は開くばかりなのである。
 
そしてこうした残念な教員というのは、あらゆる責任を学生に転嫁するという特徴がある。
 
授業中、学生の私語が多い、居眠りをする学生が多くて、授業をする気が失せる、と言った類の発言をする教員は以前に比べると減ってきたようには思うが、学生が私語をしたり居眠りをしたりする理由は一つしかない。
 
担当している教員の授業が面白くないからである。
 
学生の関心を惹きつけることに失敗しているのは、純粋に教員の問題であって、学生の問題ではない。
関心のない学生に対して、その学問分野の魅力を伝えることこそ教員の役割であろう。関心を持てば、人は自ら学ぶものである。それは基礎的な学力の有無とは関わりがない。基礎的な学力が低いというのは、それまで学ぶことに対して関心を持つ機会がなかったに過ぎない。その機会を与えることこそが、教員の役割である。
 
学ぶことの喜びを伝えることは、初等中等教育の段階でなされるべきことであって、大学の教員の役割ではないという意見もあるかもしれない。
しかし、単なる知識の伝達では無く、自ら学ぶきっかけを提供することは、大学の役割として決して否定されるものではないだろう。むしろそれは本来あるべき大学の姿に近いものである。
 
大学を本来あるべき姿とは異なるものにしているのは、学生でも文部科学省でもなく、教員の方かもしれないという問題意識は失わないようにしたいものである。