スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

大学のグローバル化

スーパーグローバル詐欺であれなんであれ、近年、大学の目標としてグローバル化やそれに対応した人材の育成が掲げられることが多くなった。

世界を舞台に活躍できる人材を育成することの必要性については異論はないのだが、今現在進められようとしている大学のグローバル化の方向性や、目指すべき人材像については、正直なところ疑問を禁じ得ない。

大学教育のグローバル化における最大の問題点は、英語による教育しか考慮していないという点であり、グローバル化と言いながら、実のところ単なる英語化に過ぎないことである。そして、グローバル人材育成と言いつつ、結果的には、金さえ儲かれば何でも良しとするような「(金融資本主義)グローバリズム」信者を育成しているような側面が少なからずあることである。

 

本来的には、英語だけで卒業できる大学だけでなく、例えばスペイン語だけでも卒業できるとか、フランス語だけでも卒業できるとか、あるいは中国語だけでも卒業できるとか、そういった本当の意味で個性的な大学が出てきても良い。むしろその方が需要は大きいだろう。自国で使われている公用語で学び、卒業できるという方が、英語で学ぶ環境よりも魅力的であるに決まっている。わざわざ英語を学ぶのであれば、大学の外に出れば日本語ができないと不自由な国の大学を留学先に選ぶ理由は何もない。

 

教員の語学力に関しても、最近の公募では英語で授業ができるということがもはや必須条件となっている。その一方で、英語でしか授業ができないという例も出てきているようで、そうなると日本の大学の教員としては、明らかに問題がある。本来的には、日本語に加えてもう1カ国語で授業ができるというのが妥当なところである。

例えば仏文科では四年間かけて最後はフランス語だけで授業ができるようになれば良いだろうし、独文科では最後はドイツ語だけで、と言うようなカリキュラムができれば、卒業後にフランスやドイツの大学院に進学するという選択肢も今よりはるかに現実的になるだろう。

それこそスーパーグローバル大学が本来進むべき道だろう。

英語だけで講義をするなどという、植民地という以外に表現のしようがない高等教育機関を国内にいくつも作ってどうするつもりなのか、まったく理解に苦しむ。それなら豊田工業大学のように、アメリカに分校を作ってしまう方がよっぽど効果的である。

これもまた例えばの話だが、日本にある大学で、少なからず日本人を含む学生を対象に、英語で、英語圏以外の外国文化を教育する意義というのはどのようなものがあり得るのだろうか。そのような教育は「日本でやる必要がない」ものか、「英語でやる必要がない」ものか、そのいずれかあるいはその両方である。

日本語以外には英語しかできないような教員ばかりなのにグローバル大学を自称するなど笑い話にしかならないし、まして、英語しかできないような教員ともなれば、とてもグローバル人材の育成を行う大学の教員にふさわしいとは言えない。

英語に限らず、教職員がみな少なくともバイリンガルで、英語以外にもさまざまな言語が飛び交ってコミュニケーションができるキャンパスこそ、グローバル大学の名にふさわしい。そのようなキャンパスでこそ、世界で活躍する人材も育つというものだろう。

無理なこととは言え、もう少しまともなグローバル化を目指してもらいたいとは思う。