スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

これで大学と言えるのかと言われて

一昨日あたりから、初年次教育の観点から、大学の大衆化の現実について論じた記事が話題となっている。


この記事では、初年次教育を対象としているようだが、一般には、これで大学と言えるのか?と言った指摘は、初年次教育よりはむしろリメディアル教育に向けられるものだろうと思う。
リメディアル教育の必要性は、もはや全入が前提となった私立大学に限った話ではなく、国立大学を含めたあらゆる大学が向き合うべき課題である。

すでにFランの逆襲で述べたとおり、どの大学においてもAO型の入試で入学してくる学生の基礎学力はかなり怪しい。

そしてそれは悲しいかな、例えば研究大学やスーパーグローバル大学と言った日本の(あるいは世界の)トップクラスを目指そうかという大学においても例外ではない。
まして私立大学ともなれば、AO組でなくとも、受験に必要のない科目など全く関心もなければ勉強もしていない、教養のかけらもないタイプの学生はいくらでも存在している。

さすがにまずいという自覚はあるのか、一部上位の私立大学では、少ない科目の枠組みの中で、受験科目には上がらない分野も含む多様な知識の体系を問うタイプの問題が出題されるようになってはいる。とは言え、英語や国語、歴史と言った枠組みで微積分の知識を問うようなことはどう考えても無理があることは誰の目にも明らかである。

そうして、特に数学や英語に関しては、大学での授業に必要なレベルに達していない学生への対応として、リメディアル教育が求められることになる。
もちろん、本来高校までに学んでいるべき教育を大学が提供することについて、それで大学と言えるのか?と言った批判はもっともなのだが、社会的な背景を考えると、これらの科目群は今の大学にとって必要不可欠なものであるし、若干の誤解もあるように思う。

文部科学省としては、本来高校までに学んでいるべき内容の授業については、卒業のために必要な単位として計上すべきでないという姿勢を明確にしている。
したがって、こんなことを教えていて大学と言えるのか?と言われるような内容の授業を受けたとしても、さすがに大学を卒業するための単位としては認められないと言う建前なのである。
実際、リメディアル教育の位置付けではなく、一般の開講科目であるにも関わらず、あまりに初歩的な内容をシラバスに記載していた大学に対しては、是正するよう指示が出されている。

他方、初年次教育について述べるならば、レポートの書き方やプレゼンテーションの作法については、そもそも学力がどうこう以前に学ぶ必要があるものである。
「そんなことは大学では教えなくても自分で学んでいたものだ」と偉そうに言っている世代の悲惨な講義やプレゼンテーションを見れば、その必要性は一目瞭然である。
プレゼンテーションに関する社会人向けのセミナーやハウツー本の多さもそのニーズや実態を反映しており、明らかに大学で教育する意義がある。
論文やレポートの書き方について教える必要性については、昨今の研究不正のニュースを見れば、あえて指摘するまでもないだろう。

大学教育への動機づけについても、特に私立大学では初年次の定着度がその後の休退学数に直結することから、経営戦略上も不可欠なものである。
もちろん、お友だち作りまで手助けをしなければならないのか!?という指摘はもっともであるが、お友だちのいない学生ほど休退学に至る確率が高く、それもまた経営上無視することなどできないのである。

このようにして考えてみると、リメディアル教育についてはともかく、初年次教育については必ずしも大衆化によってもたらされたものということでもなく、大学がただ学生を放置しておく場から、積極的に関わりながら教育する場へと変化したことの表れであるに過ぎないようにも思う。

このあたり、大学の大衆化という社会の側から来た変化と、大学における教育の実質化・質の保証という文部科学省の主導する変化がほぼ平行しているので、長らく大学から離れている方々に対しては、大学をめぐる変化について、もっときちんと伝える努力が必要なのだろう。

とはいうものの、今の大学教員は昔の大学教員と違って実に大変なのだという意味においては同じである。
合掌。