スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

Fランの逆襲

もう何年前のことになるだろうか。

大学全入時代を迎えて、大学入試における偏差値を算出することが不可能である大学が出てきたことから、大学の偏差値ランキングにおいてボーダーフリー、Fランクという概念を河合塾が生み出した。それからというもの、そうした大学は巷でFランク、Fランなどと称されるようになった。
経営的に受験する学生を入試で不合格とすることが出来ず、来る者は拒まずで受け入れざるを得ない大学においては、大学教員の教育に対するアプローチも、必然的にかつての大学教育の形とは異なるものにならざるを得ない。そうした大学では、在籍する学生の学力差が果てしなく大きくなっているためである。
在籍する学生の学力差を拡大させる最大の要因と言えるのは推薦入試やAO入試であるが、今や多くの私立大学に加えて国立大学においても導入が進められ、またさらなる拡充が求められてもいる。その結果、こうした大学に所属する教員も、いわゆるFラン大学と言われる大学が10年ほどまえから経験していた事態を他人事だと考えていたところから、自分たちの問題として向き合わなければならないことをいまさらながら理解し始めていることだろう。

少子化の進行やAO入試の拡大は、それまでは合格するとは考えられなかったような学生層が、より上位とされる大学に合格・進学することを可能にした。その一方で、国立大学に進学できるだけの学力がありながら近隣のFラン大学への進学を選択する生徒も増加していることは見逃せない。
その結果、上位の大学と、Fランと言われる大学で、在籍する学生の質的な差はますます小さくなっているように感じる。
教員がそのような変化を実感しつつある一方で、自ら比較することはできないためにそうした質の変化に気づくことの出来ないのは当の学生たちの方である。

なんで私が◯◯に!?

という予備校の広告が期せずして示しているように、良い意味でも悪い意味でも、なんで君が◯◯大学にいるの!?という事態にしばしば遭遇する。
近年、一部の有力大学に在籍すると思しき学生たちが、Fラン大学やそこに在籍する学生たちを揶揄するような発言を目にする機会が増えたように思うが、特に地方に立地するFラン大学においては、経済的な理由によって自宅に近い大学を選ばざるを得ない学生の増加や、各種奨学制度の充実にともなって、在籍する大学生の上位層は近隣の国公立大学に在籍する学生たちと比べても遜色はなくなっている。他方、下位層の学生たち同士で比較すると、たとえ全国に名のしれた有名大学と言えど、AO入試を導入しているあらゆる大学の下位の学生たちというのは、Fラン大学にいる学生の下位層と差はないだけでなく、変にプライドが高いだけに、一層タチが悪いのである。そしてそういう学生たちに限って、自分の立ち位置を客観的に理解しておらず、Fラン大学とその在籍生を馬鹿にしていたりするのである。
こうした学生というのは、所属する大学の名前以外に、自らを肯定し、優越感のよりどころとなる根拠を持たない学生たちである。いたしかたのないことではあるが、これが意識高い系と表裏一体であったりすもるので、まことポスト近代型能力ばかりが身についた人材を量産してくれるAO入試というのは罪深いものである。

ともあれ、近隣のそれなりに学力のある学生を惹きつけられるようになってきた地力のある地方の(Fラン)大学が、文部科学省の大学COC事業などによってすくい上げられるようになってきたことは、注目すべき変化であると思う。実際、それらの大学では教育のレベルも教員のレベルも一定以上の水準にあり、学生を伸ばす力という点においては、最初からそれなりの知識と学力があることに依存している国公立大学や有力私立大学などに比べれば遥かに優れている。そして、そのような大学に入学した学生が、ふとしたきっかけで飛躍的に成長する姿を見ることは珍しいことではない。
Fラン大学など潰してしまえという声も多く聞かれるし、ある面でそれは正しい部分もあるのだが、いわゆるコミュニティカレッジのような役割を果たしていて、そう簡単につぶしてしまうには惜しい大学もまだまだ多く存在しているのである。そして、一部の地方国立大学は、その存在意義や地域での役割を、そうした大学と共有することになることは避けられない。

その時、ガチンコ勝負で競争で負けるのは、それなりの知識や学力をもった学生の入学を前提に安住してきた地方国立大学のほうであっても決して驚きはしない。そして公立大学を核として、地域への人材輩出を最大のミッションに掲げた再編へと向かわざるを得ない国立大学は確実に出てくることだろう。