スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

科研費と研究者

今年のノーベル賞ウィークは初日から医学生理学賞を大隅先生が受賞されたことで、大隈先生による「私と科研費」の記事が話題である。

私と科研費 | 科学研究費助成事業|日本学術振興会

どこの国立大学も、大学から支給される研究費については、いつゼロになってもおかしくない状況である。そこで多くの研究者は、自ら稼ぐことのできる競争的研究費であるところの科学研究費、すなわち科研費を申請して研究活動に必要な経費の獲得を目指すことになる。

もちろん、官民含めて、他にも競争的な研究費は多数あるのだが、科研費ほどに対象となる分野の広さと資金の規模を持った競争的研究費は国内にはほかになく、わが国の研究活動の基盤となる存在である。

概ね2年から3年の期間が中心であろうと思われるが、その期間に何をどこまで明らかにするか、その成果などのような意義があるのか、明確に示して認めてもらわなければならない。審査のある競争的研究費の獲得レースにおいては、何に役に立つかまで具体的に見えにくい基礎研究は、必然的に不利である。

特に論文の数も多くはなかったと言われる大隈先生が長く科研費の支援を受けて来られたことは、かなり例外的と言える。

本来的には、ある程度ばらまく研究費が必要な分野もあるだろう。競争的な枠組みでは学振もあるし、科研費にも40歳以下を対象として比較的獲得しやすい若手枠もある。しかし、どちらかと言えば、年齢による若手枠と所属機関から支給される研究費は廃止して、例えば研究者として着任して10年間程度は無条件で国が研究費を支給し、段階的に競争的研究費に移行して研究者としての資質と成果を問う、と言った方策の方が効果はありそうである。

科研費の増額については毎年要望が出されており、もちろん増えるに越したことはない。ただ、周りを見回す限り、優秀な研究者はほぼ全員が科研費を獲得して研究を実施しており、ピアレビューによる研究者としての選別は概ね有効に機能しているように見える。もし仮にまかり間違って科研費の予算枠が増える日が来るとしても、採択数を増やすよりは支給額を増やす方が有効であろう。来年度からは新しい審査の仕組みが導入されることになるが、きちんと研究を行っている研究者を支援するという部分が失われることのないようにしていただきたいものである。

国立大学によっては、科研費を獲得できないと人間扱いされないというような話も聞くが、基本的に正しい扱いと言えるだろう。少なくとも代表として科研費を獲得したことがないような者は、研究者や学者を名乗るべきではない。

各大学では今年度の申請がほぼ出揃ったところであろう。自分自身にも、みなさんにも、良い知らせが届くことを祈りたい。

大学ランキングのはなし(追記)

昨日、BBCにどこの国の学生がもっとも賢いのか?というOECDのテスト結果に基づく記事が出ていた。この記事で指摘されていることは、わが国の大学改革の方向性や、大学ランキング騒動を考える上でも大いに示唆に富んでいる。

www.bbc.com

These figures, based on test results rather than reputation, show a very different set of nationalities from the usual suspects.

The OECD's top 10 highest performing graduates

  1. Japan
  2. Finland
  3. Netherlands
  4. Australia
  5. Norway
  6. Belgium
  7. New Zealand
  8. England
  9. United States
  10. Czech Republic

None of the countries in the top places make much of an appearance in conventional university rankings.

 

レピュテーションではなく、テストの成績にもとづいて示されたリストには、(大学ランキングなどから)想像されるものとは随分と異なる国々が挙げられている。

OECDによるテストで大学の卒業生が優秀な成績であった国トップ10

  1. 日本
  2. フィンランド
  3. オランダ
  4. オーストラリア
  5. ノルウェー
  6. ベルギー
  7. ニュージーランド
  8. イングランド
  9. アメリカ
  10. チェコ

上位には、よくある大学ランキングではほとんど目にすることがない国々が並んでいる。

先の革新的大学ランキングでは日本の大学の研究が高いレベルで維持されていることが明らかになっているが、教育に関しても、エビデンスにもとづいて評価すれば、日本の大学は十分に高いレベルで機能していることが分かる。

このような結果に対して、記事内で取り上げられているQSの責任者のコメントがまたたいへん興味深い。

While the OECD has compared standards across national higher education systems, the university rankings are focused on an elite group of individual universities.

OECDは国全体の高等教育の仕組みそのものを比較しているが、大学ランキングはエリート層の個々の大学に着目している。

確かに、エリート社会というのはレピュテーション、すなわちコネが何よりものを言う世界である。その意味において、QSやTHEのランキングが客観的な指標よりもレピュテーションに大きく左右されるものであるというのは、極めて妥当なものだと言えるだろう。

しかし、そのようなランキングでの評価を基準にして、わが国の高等教育の未来を考えることは果たして妥当なのか?ことあるごとに「エビデンス」にもとづく施策を求める教育行政にあっては、もっと真剣に考えるべきであろう。

大学ランキングのはなし(国際)

そもそもスーパーグローバル詐欺の発端はと言えば、運営費交付金の枠が削減されていくことを見据えた予算確保のため、国立大学法人の改革プランの中で、10年間で世界の大学ランキングトップ100位以内に10校以上を送り込むという、無謀とも言える目標を掲げたことにある。

スーパーグローバル大学のトップ型に選ばれた、北海道、東北、筑波、東京、東京医科歯科、東京工業、名古屋、京都、大阪、広島、九州、慶應、早稲田の13大学は、まさにそのような目標を掲げる大学である。

皆さんすでにご存知かとは思うが、目標の前にある現実を一度おさらいしておく。

今年のQSのランキングにおいて、100位以内に位置しているのは、東京、京都、東京工業、大阪、東北の5大学であり、日本の大学で10番目にあたる慶應が220位あたりにいる。

同じく今年のTHEのランキングでは、100位以内に入っているのは東京、京都の2大学のみである。日本の大学としては10位の東京医科歯科で401-500位に位置している。国内8位に豊田工業大が入ってくるあたり、いかにレピュテーションの比重が大きいかが分かる。このランキングにおいて100位以内に10校送り込むというのはさすがに寝言でしかないだろう。授業を英語化して留学生を呼ぼうとするより、「米国内に国立大学法人の分校を設立する事業」を推進した方が良い。

このような現実を前にしながらも大学改革に突っ走る文部科学省に批判的な大学教員は少なくない。世界どころかアジアでの地位の低下は、文部科学省の進める大学改革のせいであるかのような論調も目にする。

私自身も、今進められている改革が必ずしもランキングや教育・研究の質の向上につながるなどとは思ってはいないが、そのような大学教員にとって不都合な真実は、日本の大学のランキングは決して下降してばかりでもないということである。

確かに、東大京大を始め、国内トップ5くらいまでのランクは低下しているかもしれない。東大がアジアのトップから陥落というのは比較的衝撃を持って受け止められていたようにも思う。その一方で、国内の5-15位あたりに位置している大学のランキングは、上昇傾向にあるようにも見える。その意味するところは、お金をかければランキングは上がるということなのだろう。

大京大一辺倒の予算配分から、国立大学の機能分化の方針に合わせて、国際的に競争する研究志向の大学に対して、運営費交付金は削減されているとは言え、競争的な資金がかなり振り分けられるようになっていることは、無視できない効果はあるのだろう。

もちろん、競争的な資金では、教職員の事務処理のコストがバカにならないこと、長期的な視野に立った人材育成や研究活動に支障があることは明らかである。財務省を説得する材料であることを差し引いても、もっと効果的なやり方があるはずだというのは、大学に籍を置く者に共通する思いだろう。

ともあれ、QSやTHEのように、知名度による部分が大きいランキングでは、苦戦しているものの、トムソン・ロイターの革新的大学ランキングにおいては、日本の大学は健闘している。その理由は明確で、このランキングでは、知名度や評判といった「エビデンス」に欠ける指標は排されており、具体的かつ客観的な成果に基づいているからである。

16位の東大を筆頭に、大阪、京都、東京工業、慶應までが50位以内にランクされ、九州、名古屋、北海道と8大学が100位以内に位置している。

世界全体にさきがけて発表されたアジアでのランキングに限ると、アジアで20位の北海道の下には26位広島、29位筑波、31位東京医科歯科と続いており、このランキングに関しては世界のトップ100位以内に10校というのは、あながち無謀な目標とは言いきれない。

この革新的大学ランキングは、基本的には研究成果によるものであり、教育機関としての大学という面は評価されていないことは差し引いて考える必要はある。しかし、日本の大学は、言葉の壁がある中で、成果だけを見ればグローバルな研究環境においてかなり競争できているということでもあり、勇気づけられる結果である。このことは、グローバル化の掛け声のもとで進められようとしている、授業の英語化や留学生数の目標設定の是非について考える上でも示唆を与えるものだと言えるだろう。授業を無理やり英語にした結果、なんとか崖っぷちで踏み止まっていたところを背後から突き落としてトドメを刺すような事態にならないことを祈りたい。

大学ランキングのはなし(国内)

今回と次回はランキングの話題。

昨今一部の世間を賑わせている大学ランキングは、世界各国の大学をランク付けするものだが、国内でもこれまで経済系の雑誌や、進学情報系メディアを中心に「〇〇な大学ランキング」なる特集が度々組まれてきたことにはそれほど大きな関心は向けられてはいないように思う。

経営的に安定した大学、就職に強い大学、学生を伸ばす大学、などなど、ランキングとしての中身や質はまさに玉石混交であることも一因かもしれない。あまり参考にならないランキングであるということは、読む方もわかっているものだ。

近頃は多くの大学で財務状況などは公開されているので、大学の経営力ランキングなどは説得力も利用価値もあるものかもしれない。上場企業への就職内定率などの独自調査に基づく大学の就職力ランキングなども、それなりに参考にはなりそうである。

他方、例えばキャンパスナビなんとかの実施しているような、進学校2000校の進路指導教諭に聞いた(「学生を伸ばす力のある大学」の類の)ランキングシリーズになると、偏差値的に上位の国公立大学や大規模私立大学と、理系であれば金沢工業大学、文系であれば国際教養大学といった、メディアでしばしば取り上げられるごく一部の大学によってランキングが構成されることが特徴的である。つまり、名前を聞いたことのある大学一覧にしかならない。結果として、わざわざ見る価値のほとんどないランキングになってしまう。

これらの大学が名前を挙げられる理由としては、誰々先生のところで目立つ研究成果を上げたといった具体的な根拠は乏しく、のびのび学べそうといった漠然としたイメージでしかないことが多い。そもそも、異なるランキングごとに2000校もの進学指導教諭に何度も似たような質問をしているわけもなく、一旦集めたデータの中身を取捨選択し使い回しながらランキングを量産しているわけで、ランキングには似たような大学しか並びようがない。

本来であれば、特に進学情報系のメディアには、偏差値ランキングとは別の次元で、どのように大学を選択すべきかという資料を示してもらいたいところである。

例えば文部科学省による大学COC事業などは、表向きは広く募集されていたとは言え、その目的は地方国立大学の救済にあることは明白であった事業である。結果的には私大協によるアピールの効果もあり、私立大学からも一定数が採択される結果となった。そして、採択大学のリストは、多くの人にとって驚くべきものになったと思う。聞いたこともないような大学も少なくない。しかし、これらの大学は、文部科学省のもとで、産官学の各領域から任命された審査員によるピアレビューを経て、地域と歩む覚悟を高く評価された大学の一覧でもある。全国的な知名度がさほど高くはなく、世間的なイメージや入学してくる学生の資質にも左右されず、確固たるビジョンに基づいて教育・研究・社会貢献活動に取り組んでいるこれらの大学は、もっと注目されて良い。しかし、これらの大学の多くは、近隣地域はともかく、依然として全国的に見れば知名度も社会的な評価もそれほど向上していない。それどころか、実態を知らない部外者からは、ひとくくりにFラン呼ばわりされていたりもするのである。とても公正な評価がされているとは言えないだろう。

実際のところ、近頃話題のTHEにせよQsにせよ、レピュテーション(つまるところ知名度である)の組み込み率が高いランキングでは、こうした状況と似たような面があり、それもまた大学の関係者が冷めた目で見ることになる理由でもあろう。

社会の評判というのは確かに一つの指標ではあるが、実績だけを客観的に見れば全く違う評価になるはずなのである。

それはロイタートムソンが主として大学の研究成果にもとづいて集計している、イノベーティブな大学ランキングを見れば明らかである。これについては次回あらためて述べることにしたい。

 

ポスドクの憂鬱は終わらない

どの業界でも団塊の世代の大量退職によって、若い世代の雇用環境の改善が期待されるという話があったが、大学界隈ももちろん例外ではない。団塊世代が退職すれば多くのポスドクや任期付きポストに甘んじている若手にもテニュアへの道がひらけるのではないか!?という期待の声はあった。

しかし、多くの業界において、団塊世代の正社員が退職したからといって正社員の雇用が増えるわけがなく、非正規雇用が増えただけであるという事実もまた、大学界隈でもまったく同様なのである。

優秀な若手の研究者が任期付きの不安定なポストを転々とする、そのような状況は、使えない年寄りが定年退職してテニュアのポストが空いたからと言って、今後も変わることはないだろう。悲しいかな、逃げ切れるのは団塊世代までのお話であって、非正規化の流れは変わりようがない。

承継教員は必要最低限のレベルまで削減され、どうしても埋め合わせる必要がある部分には、任期付きの助教や定年後の特任教員によって対応することが今後の多くの大学における人事の基本だろう。

国立大学の運営費交付金が毎年削減されていくことは既定路線である。もはや教職員の人件費さえ賄うことができない以上、人件費の削減に踏み込まざるをえない。おそらくどこの国立大学も現状の教員定数そのものには余裕があり、継続的に1割程度は承継教員を削減していくだろう。学科の統廃合、もしくは新設学部等への移行の機会を利用して、求められる教員数を削減していくこともあるだろう。

そのような状況であるがゆえ、今後も国立大学でテニュアのポストを獲得するのは決して容易なことではない。テニュアポスト大放出の可能性はゼロであると思った方が良い。

他方、潰れる心配をしなくて良いクラスの私立大学では、メディアを賑わせて大学の名前を売ってくれるような、スター性のあるタレントでなければなかなかポストを得られないだろう。

救いは、公正な公募が増えていくことだろう。それによって、どうしてこんな人が大学の教員をしているのかというような場面を目にすることは減っていくはずである。厳しい競争であることに変わりはないが、経験的には、優秀な人材であれば遅かれ早かれテニュアのポストを獲得することができていると思う。

自分がテニュアを取れないのは差別のせいであるとか陰謀であるかのようなことを公言する方もいるようだが、基本的には本人の能力の問題であることも多い。自己に対する評価が高い割には、客観的にはそれに見合うだけの業績が圧倒的に足りないのである。

自分自身の経験からも、結局のところ、ひたすら業績を稼ぎつつ、お祈りメールに負けることなく、公募に応募し続けるしかないのである。

 

 

オープンキャンパスへの意気込み

先月、女子高生に土下座で「お願い、1回だけでいいから」という、誤読を誘うヤル気満々コピーのゲスい広告で名古屋近辺の大学が全国にその名を轟かせたところであるが、高校野球も盛り上がりを見せる夏休みは、国公立大学を含め、多くの大学のオープンキャンパスが集中している季節でもある。この週末にも多くの大学でオープンキャンパスが開催されることだろう。

志望する大学の様子を確かめたいという前向きな高校生はもちろん、夏休みの宿題としてノルマを課されているので仕方なく適当なところに行っておくという後ろ向きな高校生であっても、オープンキャンパスへの参加は、その後の進路決定に直接的に影響を与えられる数少ない機会である。

したがって、私立大学にとってはオープンキャンパスに来てくれる高校生を増やすことが非常に重要であるとともに、オープンキャンパスでどのような体験を提供するかということも極めて重要であり、年間を通して最も力をいれるイベントとなっている。

そのようなオープンキャンパスに対する意気込み、あるいは自分たちの将来がかかっているという感覚が空回りすると、冒頭のような広告につながったりもするのであろう。こうした感覚は、どんなに忙しくなろうとも、名の知れた国公立大学でしか勤務したことのない教職員には永遠に理解されないことの一つだろうと思う。

ほとんど何もしなくても千人単位の高校生がオープンキャンパスに来るというのは、これまで体験したことのない身にとって驚くべきことだが、一方で、小規模大学では数十人から百人単位の高校生を集めるために、血を吐くような努力をしている。そして哀しいかな、それほどの努力を以ってしても、それ以上には集まらないのである。これは実際のところかなり辛い。まして、来場者が前年度割れというようなことになると、それは次年度入試の志願者減に直結することが分かっているので、精神的にもこたえる。

ともあれ、オープンキャンパスに参加してくれた高校生と言うのは、潜在的な、それもかなり有望な将来の顧客である。多かれ少なかれ関心を持って来てくれた高校生には、できればそのまま志願してもらいたい。それが安定的な学生確保への近道だからである。最大限の準備をして、大学の魅力を出来るだけ伝えたいというのが、規模の大小を問わず私立大学にとってのオープンキャンパスであり、国立大学のオープンキャンパスとは根本的に姿勢が異なっている。

正直なところ、一度で良いから大学に来て実際に見てもらえれば印象は変わるはず、と言うのは、それほど知名度が高くなく、規模も大きくなく、学生確保に苦労している(そしてしばしばFランなどと揶揄されていたりもする)が、自分たちの教育には自信のある大学に共通する思いではあるだろう。実際、そこには多くの人が持っているイメージとは随分違った光景があったりもするのだ。

各地でオープンキャンパスに参加する高校生のみなさんには、熱中症対策を万全にして、将来の進路を考える機会にしていただければと思うが、できれば複数の大学のオープンキャンパスを見比べて欲しい。また、オープンキャンパスの時だけでなく、可能であれば普段の日常の講義風景なども実際に見てもらいたい。まともな大学と教職員であれば、そのような面倒なリクエストにも協力してくれるであろう。

本当の敵は誰か?

国立大学の教員たちが、優秀であればあるほど雑務ー特に個人もしくは組織として応募する各種競争的資金の申請書作成業務に追われ、教育・研究に携わる時間とかけられる経費が減り、最終的に学生の教育にもしわ寄せがいく、といった昨今の事態に対して、文部科学省の繰り出す見当違いの大学改革メニューに振り回されているからであり、無能な文部科学省や大学執行部をなんとかするべきであるといった批判はよく目にするところである。

もちろん、文部科学省がどさくさに紛れてトップダウン型組織へのガバナンス改革や、人文系部局の(意識)改革や再編を遂行しようという意図があることは否定しない。実際のところ、中には医学部は鬼ヶ島状態で楯突くと解雇されるような大学や、学長の暴走特急が絶賛爆走中の九州の教育大学のように、ガバナンス改革がどう見てもおかしな方向に進んでいるものの、止める術が用意されていないという、内部の人間には全く笑えないネタのような事態も発生していることも事実である。しかしそれでもなお、多くの国立大学の惨状をもたらしている直接の原因は、文部科学省による大学改革プログラムではない。

確かに、国立大学をめぐる状況が悪化していくプロセスと、大学改革プログラムが繰り出されるタイミングがほぼシンクロしていることから、因果関係が誤解されることは多い。

しかしすでに書いてきた通り、文部科学省としては、国立大学の運営費交付金を継続的に削減していくという方針を飲まされた以上、どうにかしてその削減分を埋め合わせようというのが本来の立場である。多くの国立大学では運営費交付金だけでは人件費すら賄えない状態にある以上、できるだけ何らかの競争的な資金を割りあてる、というのが財務省とのギリギリの折衝の結果だと言える。

このようにして、財務官僚を説得するための材料として繰り出されているはずが、守るべき大学方面にも派手に誤爆しているのがさまざまな大学改革プログラムであると言えるだろう。

誤爆されている現場の大学教員のほうが、文部科学省や自分たちの大学執行部を攻撃したくなる気持ちも理解できるが、しかし本来共に闘うべき味方同士が足を引っ張りあっているという状況は、財務省としては笑いが止まらないであろう。

文部科学省は教育のなんたるかを理解していない!」との批判は、まずはそのまま「財務省は教育のなんたるかを理解していない!」と矛先を変えるべきなのである。

そのような財務省相手に説得して予算を獲得しなければならないからこそ、文部科学省としてもともすれば見当違いの施策を次々と提案するのであるし、財務官僚にも理解できる短期的に目に見えてわかりやすい成果を求められているに過ぎない。

その一方で、多くの国立大学の執行部において、財務状況を巡る厳しい現状を大学の教職員全体で共有しようという姿勢がほとんど見られないことは、誠に残念なことである。大学の執行部に籍を置く方々の多くは、優秀な方々であるとは思うのだが、大学経営への適性以前に、そもそも人心掌握の基本を理解していない方も少なくないように見える。

「現在の本学の財務状況は、国からのお金だけでは人件費も賄えません。研究費くらいはなんとか自助努力で稼いでもらわなければならないのです。このままではいずれ、大規模な人員削減もしくは人件費の大幅カットをしない限り組織が立ちゆかなくなってしまいます。文科省財務省に対して共に問題を訴えていきましょう!」

とでも言えば良いところを、

「研究費はカットします。お金がないのだから仕方ない。異論は認めない。」

というやり方なのだから、一緒になんとか頑張ろうという気など起こるはずもない。結果、「一体何にお金を使っているのか?」というような、執行部への疑心暗鬼だけが増幅していくのである。現実問題としては、何に使っているのかと聞かれれば、「みなさんの人件費を払ったら財布は空っぽです」ということなのだが、ものは言いようなのである。

「ベンチがアホやから野球ができん」とはまさにこのような事態であるのかもしれないが、それでもわれわれ国立大学に籍を置く者としては、本当の敵を見誤らないようにするべきである。