スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

管理屋より猛獣使いを

ソニー退潮の要因を、上に立つリーダーが数字による管理ばかり重視する経営姿勢に見出す、技術畑出身で副社長まで務めた大曽根氏のインタビュー。彼の発言は昨今すっかり管理屋が跋扈する業界になりつつある国立大学法人ならびに文部科学省の全関係者が一読する価値があるだろう。

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イノベーションや卓越した研究を計画的に生み出すことなど不可能であるし、数値目標を立ててどうなるものでもない。そもそも計画的に実現できる程度のことであればイノベーションにはならないのである。

国立大学には限らないが、競争重視の教育・研究環境支援は、ピアレビューによる外部評価という側面は一定の評価をするべきではあろうが、結果として短期的な成果を過度にすることにつながり、それは長期的にはわが国の教育・研究の停滞を招くだろう。

大学、特に国立大学界隈は、これまで業界としてシステム全体の最適化や改善ということに対してあまりに無頓着であったがゆえに、その改革は不可欠であることについては疑問を差し挟む余地はない。ただ問題はその改革に対する方法論であって、そもそも工場などの生産現場での業務改善手法を高等教育機関に応用することの限界も明らかになりつつある。

PDCAが必要であることも否定はしないが、大学においてPDCAが必要となる場面があるとすれば、研究よりはむしろ教育に関する部分であろう。研究と教育とを同じ手法で改革していこうという戦略にもすでに限界が見えている。

また、国立大学等が導入しようとする業務管理の方向性にもやや問題がある。広島大学のアレと揶揄されたKPIの導入は、改革の必要性と言う大学経営上の危機感には賛同できる部分もないわけではない。大学人らによるほぼ全面的とも言える拒絶反応は、大学における意識改革の必要性の証であるとも言えるだろう。クビにしたほうが良い人材を多数抱えていながら解雇はできないというのが国立大学経営の最大のネックであるのは事実である。しかし、公開されている情報から広島大学のKPIの実装について読めば読むほど、現場の抵抗、あるいは構成員のモチベーションの低下を招くだけに終わるのではないか?という感想しか出てこない。

組織のパフォーマンスは、ある程度数値化して客観的に把握する必要があるというのは、小規模大学ならともかく、旧帝大官立クラスの国立大学の規模であればやむを得ないのかもしれない。しかし、それでもやはり実際に動くのは現場の人間であるということを忘れるべきではないし、人材を育成する教育機関は、工場の生産ラインとは違うのである。

文部科学省も国立大学のリーダーとしての資質に問題が出てきていることを理解し始めているようではある。

イノベーション経営人材育成システム構築事業:文部科学省

しかし、そもそもイノベーションを生み出す経営というものが、わが国においては民間でさえ困難であるという現状認識はあるのだろうか?

現在のわが国の多くの国立大学は、早く辞めていただきたい困った高給取りを多く養っていることも否定はしないが、才能ある奇人変人を多数擁しているという点においてかつてのソニーに負けてはいない。

大曽根氏の主張の中心は、人が変われば組織は(良くも悪くも)生まれ変わるということに尽きる。重要なのは、上に立つリーダー、大将の姿勢である。

国立大学のリーダーに求められるのは、成果を数値で判断するタイプの温室育ちの管理屋ではなく、むしろ野生の経験と勘にもとづいて奇人変人をおだててあしらいながら導くことのできる猛獣使いである。

憂慮すべきは多くの大学の理事の面々を見る限り、猛獣使いより温室育ちばかり目立つことであり、レスリング出身の文部科学大臣ならば、いまこそその本領を発揮すべき時と言えるかもしれない。

残念な大学教員

出来レースではない公募案件も増えてきた昨今では、比較的少なくなってきたようにも思うが、それでもやはり教育に携わる資質に疑問符がつくような大学教員というのは存在している。

 
なにより学生をバカアホ呼ばわりする教員というのは、救いようがなく、一刻も早くご退職願いたいものである。しかし、信じがたいことかもしれないが、講義で「お前らはバカだからこんなことを言ってもしょうがない」といった発言を平気でするような大学教員というのは実在する。もしその発言内容が事実であるとすれば類は友を呼ぶという以外に言葉が見つからないわけだが、ご本人にそのような自覚のなさそうなことは重ね重ね残念なことである。

そしてこのような残念な教員問題というのは、大衆化に伴う基礎学力の低下とまったく無関係であるとは言わないが、全入時代が訪れる前から、この種の発言をする大学の教員というのは存在していたことから考えると、それほど関係があるわけでもないのである。
 
大学の教員のなかには、果てしなく優秀な学生しか教えられない人がいる。つまるところ放っておけば良い学生なら担当できるということであって、人を育てる力というのは皆無なわけであるが、そのような教員の生きられる場所というのは今後大学には存在しなくっていくだろう。もちろん、そうした教員も、研究能力の有無はまた別の問題であり、本来は純粋の研究機関に所属することが本人にとっても学生にとっても幸せなことだろう。ただ、経験上、教育に熱心な教員というのは研究面でも優秀な人が多いようには思う。
 
先日、福岡教育大学で全教員に附属学校での研修を義務付けるといった話もあり、その件については批判的に伝えられることが多かった。しかしその一方で教育の資質に欠ける大学教員をどうするのか?という問題が存在することから目を背けて良いわけではない。
 
公募時の採用面接でもかなり詳細に教育する力を問われるところはあるし、FDなどの取組も進んできてはいるが、こうした研修制度の限界というのは明らかである。
積極的に研修に参加するのは熱心で上手な人ばかりであり、本当に必要な人に限って我関せずという態度であったりすることから、差は開くばかりなのである。
 
そしてこうした残念な教員というのは、あらゆる責任を学生に転嫁するという特徴がある。
 
授業中、学生の私語が多い、居眠りをする学生が多くて、授業をする気が失せる、と言った類の発言をする教員は以前に比べると減ってきたようには思うが、学生が私語をしたり居眠りをしたりする理由は一つしかない。
 
担当している教員の授業が面白くないからである。
 
学生の関心を惹きつけることに失敗しているのは、純粋に教員の問題であって、学生の問題ではない。
関心のない学生に対して、その学問分野の魅力を伝えることこそ教員の役割であろう。関心を持てば、人は自ら学ぶものである。それは基礎的な学力の有無とは関わりがない。基礎的な学力が低いというのは、それまで学ぶことに対して関心を持つ機会がなかったに過ぎない。その機会を与えることこそが、教員の役割である。
 
学ぶことの喜びを伝えることは、初等中等教育の段階でなされるべきことであって、大学の教員の役割ではないという意見もあるかもしれない。
しかし、単なる知識の伝達では無く、自ら学ぶきっかけを提供することは、大学の役割として決して否定されるものではないだろう。むしろそれは本来あるべき大学の姿に近いものである。
 
大学を本来あるべき姿とは異なるものにしているのは、学生でも文部科学省でもなく、教員の方かもしれないという問題意識は失わないようにしたいものである。

これで大学と言えるのかと言われて

一昨日あたりから、初年次教育の観点から、大学の大衆化の現実について論じた記事が話題となっている。


この記事では、初年次教育を対象としているようだが、一般には、これで大学と言えるのか?と言った指摘は、初年次教育よりはむしろリメディアル教育に向けられるものだろうと思う。
リメディアル教育の必要性は、もはや全入が前提となった私立大学に限った話ではなく、国立大学を含めたあらゆる大学が向き合うべき課題である。

すでにFランの逆襲で述べたとおり、どの大学においてもAO型の入試で入学してくる学生の基礎学力はかなり怪しい。

そしてそれは悲しいかな、例えば研究大学やスーパーグローバル大学と言った日本の(あるいは世界の)トップクラスを目指そうかという大学においても例外ではない。
まして私立大学ともなれば、AO組でなくとも、受験に必要のない科目など全く関心もなければ勉強もしていない、教養のかけらもないタイプの学生はいくらでも存在している。

さすがにまずいという自覚はあるのか、一部上位の私立大学では、少ない科目の枠組みの中で、受験科目には上がらない分野も含む多様な知識の体系を問うタイプの問題が出題されるようになってはいる。とは言え、英語や国語、歴史と言った枠組みで微積分の知識を問うようなことはどう考えても無理があることは誰の目にも明らかである。

そうして、特に数学や英語に関しては、大学での授業に必要なレベルに達していない学生への対応として、リメディアル教育が求められることになる。
もちろん、本来高校までに学んでいるべき教育を大学が提供することについて、それで大学と言えるのか?と言った批判はもっともなのだが、社会的な背景を考えると、これらの科目群は今の大学にとって必要不可欠なものであるし、若干の誤解もあるように思う。

文部科学省としては、本来高校までに学んでいるべき内容の授業については、卒業のために必要な単位として計上すべきでないという姿勢を明確にしている。
したがって、こんなことを教えていて大学と言えるのか?と言われるような内容の授業を受けたとしても、さすがに大学を卒業するための単位としては認められないと言う建前なのである。
実際、リメディアル教育の位置付けではなく、一般の開講科目であるにも関わらず、あまりに初歩的な内容をシラバスに記載していた大学に対しては、是正するよう指示が出されている。

他方、初年次教育について述べるならば、レポートの書き方やプレゼンテーションの作法については、そもそも学力がどうこう以前に学ぶ必要があるものである。
「そんなことは大学では教えなくても自分で学んでいたものだ」と偉そうに言っている世代の悲惨な講義やプレゼンテーションを見れば、その必要性は一目瞭然である。
プレゼンテーションに関する社会人向けのセミナーやハウツー本の多さもそのニーズや実態を反映しており、明らかに大学で教育する意義がある。
論文やレポートの書き方について教える必要性については、昨今の研究不正のニュースを見れば、あえて指摘するまでもないだろう。

大学教育への動機づけについても、特に私立大学では初年次の定着度がその後の休退学数に直結することから、経営戦略上も不可欠なものである。
もちろん、お友だち作りまで手助けをしなければならないのか!?という指摘はもっともであるが、お友だちのいない学生ほど休退学に至る確率が高く、それもまた経営上無視することなどできないのである。

このようにして考えてみると、リメディアル教育についてはともかく、初年次教育については必ずしも大衆化によってもたらされたものということでもなく、大学がただ学生を放置しておく場から、積極的に関わりながら教育する場へと変化したことの表れであるに過ぎないようにも思う。

このあたり、大学の大衆化という社会の側から来た変化と、大学における教育の実質化・質の保証という文部科学省の主導する変化がほぼ平行しているので、長らく大学から離れている方々に対しては、大学をめぐる変化について、もっときちんと伝える努力が必要なのだろう。

とはいうものの、今の大学教員は昔の大学教員と違って実に大変なのだという意味においては同じである。
合掌。

地域志向の功罪

地(知)の拠点(大学COC)事業の募集や、新課程の廃止にともなう学部・学科再編等により、地域を志向した学びを実践する学部学科が雨後の筍状態である。

地方の国公立大学の生きる道として、方向性そのものは間違いではないが、問題はアクティブラーニングだ、プロジェクトだ、と言って、十分な準備もなく地域のフィールドへ学生が放たれることである。
学生だけならまだ良いが、そもそもそうしたフィールド型の教育や研究を実践したことのない教員まで一緒に放たれると目を覆うばかりの惨状となる。

「地域の皆さんにお話を聞きましょう!」
「困っていることはなんですか?」
「みんなで地域の課題を話し合いましょう!」
「どうやったら解決できるか考えてみましょう」

このような何も考えていない授業ばかりが登場し、毎年同じことが地域で繰り返されることになったりするのである。
3年目くらいにもなれば、

学生「困っていることはなんですか?」
地域「お前らの存在」

という答えも出てきそうな勢いである。

本当に困っている課題を抱えた地域があり、地域だけでは解決することは困難で、それを解決に導くだけの能力のある教員がリードするプロジェクトであれば、学生を巻き込んでやる価値があるだろう。実際、そういう教員が成果をあげているところも無いわけではない。

しかし問題は、やりたくは無いけれど地域を志向した学びを実践しなければならなくなった大学には、学生たちがなんちゃって課題解決型学習しましたという成果が出せれば良いという程度の覚悟しかないことである。

これが実際に地域の方々自身が自ら率先して課題解決に取り組んでいる地域の現場であったりすると、学生たちが大学の授業と称して入ってこられるのは迷惑でしかない。
むしろ、そのような組織には、学生をインターンとして送り込む方が双方にとってメリットが大きいはずなのだが、そのあたりの地域の実情を踏まえたマッチングやマネジメントすらまともにできないような地域系学部学科というものがこの世に少なからず生み出されていることが頭の痛いところである。

まずは学生たちと、自分たちの学部学科の課題解決から始めるのが最良の教材となるはずで、地域に出る前に学内で課題解決型学習を実践することが大学にとっても地域にとっても有益であろう。


スーパーグローバル大学をめぐる誤解

スーパーグローバルという恥ずかしい名前の是非や、本来のグローバル化がどうあるべきかという話はここではひとまず横に置いておく。
随分と威勢良く始まったはずのスーパーグローバル大学創成支援であるが、スーパーグローバル詐欺だともっぱらの噂になっているとおり、絶賛失速中の模様である。
世界のトップ100以内を目指すトップ型で年間最大5億円が10年間。この種の事業としては比較的大きな方だとは思うが、それでも大学全体の予算からすれば無視できないにせよわずかな割合であろう。5億円と言えど、学生が25000人いるとするならば1人あたりわずか2万円でしかない。年間2万円というと英会話に月1回1時間通うことさえできない程度の金額である。
その最大で5億円という予算ではあるが、採択数を予定よりも増やして、また予算も絞られた結果、当然のことながら1大学あたりの取り分は少なくなっている。平均で4.2億という想定であったところから、概算請求の金額の時点で山分けでも3.3億程度にしかならないので、実際のところトップ型でも3億を切るようなところもあるのだろう。そうなってくると1人あたり年間1万円程度の世界で、随分と割の合わない話というのはその通りで、ほとんど携帯電話会社の料金プランレベルの話である。
これでランキングどうこうというのは土台無理なお話であって、そんなことは誰でもわかっている。

だが、世界トップ100を目指すという目的は、実際のところそれほど重要ではなく、文部科学省にとってより重要なのはそのための手段として行われる大学改革の部分であろう。
国立大学のガバナンス改革や教育改革は、激しい競争にさらされている私立大学に比べて、明らかに遅れをとっており、その改革のためのアメの部分が最大5億円!ということであったと考えるべき事業である。
事業の目的はトップ100を…ということであるにせよ、事業概要を見れば、国際化関連と並んでガバナンス改革、教育改革が並んでおり、むしろ国内トップクラスの大学におけるガバナンス・教育改革支援事業といった方がよい内容なのである。つまるところ、表向きの目的達成とは別のところに事業の本来の目的があるのは公募要領を見れば誰の目にも明らかなのである。

そのようなわけで、よくなされるようなこれで本当にトップ100になれるのかというような批判は的外れなものである。それをきちんと読むこともできずに、これでランキングがどうこう言っているようなおめでたい大学教員はあまり信用しなくて良い。

本丸は大学の改革進行を遅らせている要因となっているガバナンス改革と教育面での改革なのである。
研究科長まで務めた教員を、学長にたてついたことにより解雇した岡山あたりの某大学に対して、特筆すべき改革の進捗状況にあると評価してしまうことからも見て取れる。さすがにまずいのではないか。学長権限に歯止めをかけ得る監査のあり方についてようやく検討し始めたようであるが、手遅れ感は否めない。

桃太郎が返り討ちにあった話はさておき、特に単科でない国立大学では、組織が巨大過ぎて抜本的な見直し再編などほとんど不可能であった。それが雪崩をうってクォーター制の導入などが行われるようになったのは驚くべきことである。それは、こうした改革の評価すべき成果であるかどうかは別にして、結果なのである。
もっとも蓋を開けてみればクォーター制の導入が有名無実化しているといった話も聞こえてくるので、良くも悪くも国立大学の本領発揮と言うところなのかもしれない。ランキングの低下を尻目に、事業としてはガバナンス改革と教育改革の部分でどれほど数値目標を達成できるかも問われているわけであるが、流行りの原則に従えば、出てくるお金が減ったのだから、成果もそれなりに終わるのは当然の帰結であろう。文部科学省と国立大学の綱引きは続く。

グローバル化をめぐる今回の文部科学省事業の少々残念なお話しとは別に、大学のグローバル化が本来目指すべきもののかたちについてはまた改めて書くことにする。

金メッキ週間

世間では黄金週間である。民間企業では4/29から5/8まで10連休というところもあるだろう。
それに対して、今年は土日以外は祝日も通常通り授業を実施するという大学も少なくない。大学がレジャーランドであった頃に卒業した皆様方には想像すらできないことであろうが、そのような大学の学生や教職員に黄金週間は来ないのである。
大事なことなので念のため繰り返すと、黄金週間は無いのである。

近年、単位の実質化の徹底がはかられる中で、2単位の講義に対して90分×15週分の授業+試験の実施がほぼ定着した。レジャーランド時代には13週分しか実施していなかったところが、年間で言えば4週間、まるまる1ヶ月分授業が増えていることになる。
また、何らかの理由により休講すればほぼ確実に補講される。休講になればそのままなかったことにされた時代があったことなどまるで嘘のようである。
当然のことながら、授業が増えた分は休みが圧迫される。
加えて、多くの祝日が月曜日に移されたことも大学の授業日数確保の上では悪夢でしかない。月曜日の授業だけが圧倒的に少なくなってしまうことになるのである。これは祝日に授業を行う大きな理由の一つとなっている。

大学生は遊んでばかりなどと考えている皆様方は、もう一度いまの大学に入り直して身をもって実感した方が良い。良い面でも悪い面でも、自分たちの学生時代とは似ても似つかぬ世界であることに気づくだろう。

ともあれ、国立大学では曜日の振替などで切り抜けて祝日の授業実施を回避しているところも多い。また、東大のように、一コマの授業時間を90分以上に延ばすことで対応している大学もある。
一方、私立大学では、入試形態が極めて多様化・複雑化しており、入試関係の日程が非常に多く確保されているほか、オープンキャンパスなどの高校生向けの行事に費やされる日もかなり増加している。また、多くの授業を非常勤講師に依存している大学では、曜日の振替を行うことで、複数大学を掛け持ちしている非常勤講師の授業のバッティングを避けたいという思惑もある。
このように、行事と授業との兼ね合いや、非常勤講師の予定を考慮すると、祝日にも授業を行うということが授業日数を確保する上で最も合理的な選択となるのである。

黄金週間とは縁がなくなった学生たちは気の毒としか言いようがないが、せめて夏と春の休業期間中くらいは休みを満喫してもらいたいものである。とはいえ昨今の学生たちはバイトのシフトでがんじがらめになっており、休みを満喫する余裕すら無いというのが実態かもしれない。

2018年問題に背を向けて

2018年問題という言葉がある。大学に教員や職員として籍を置いていて、その言葉や意味を知らないとすれば、かなりおめでたい部類に入るが、国立大学界隈には意外とそう言う方々もいらっしゃるかもしれない。
わが国では少子化が進んでいるとはいえ、18歳人口の減少傾向に関して言えば、近年はやや減少しているとは言え、おおむね小康状態にあった。それが2018年以降、急激かつ継続的な減少時代へと移行する。それによって大学は、十数年ほど前に訪れた全入の時代から、本格的な淘汰の時代に入らざるを得ない。
少なくとも多くの私立大学関係者は、2018年問題に対してはかなりの危機感を持って対策を練っている。それは5年後、10年後を見据えた大学の経営戦略として、という意味である。
大幅な18歳人口の減少という現実の前では、今の大学数を維持するのはとうてい不可能であって、それは国立大学といえど例外ではあり得ず、誰でも入れるようなFランク大学を潰せば良いというような単純な話でも無いのだが、恐るべきことに2018年問題などどこ吹く風という大学関係者もこの世には存在する。
国立大学では、教育系の新課程が軒並み廃止される訳だが、それに対して定員の倍以上の志願者がいるのに廃止するなんて許せん!音楽や美術(に限らないが)を学ぶ場を奪うな!というような話も日本海に面したあたりなどから聞こえてくる。
廃止されるのは新課程だけであって、教員養成課程としての特別教科がなくなる訳では無いというお話しや、音楽はともかく美術を学ぶなら長岡造形大学が公立になりましたよというお話しは横に置くとして、私立大学が5年先10年先の志願状況を見据えている中で、今の志願状況だけを考えていれば良い国立大学の先生方というのは大変優雅な身分なのである。ぜひ見習いたい。
ともあれ、2018年以降の18歳人口の変化や、財務省との綱引きの中で、先の国立大学改革の方向性も示されている。そして、どう考えても旧帝大や旧官立系を除く地方の比較的小規模な国立大学(「地域貢献タイプ」を選択した55大学と言っても良い)は、大幅な縮小や再編は避けられないだろう。18歳人口が急減していく過程において、地方の国立大学が果たしていた役割は、近隣の公立大学や私立大学が引き受ける余力は十分にあると言える。
それにも関わらず当の国立大学の先生方は、今のまま、あるがままの国立が大事であって、縮小も再編も許さないとおっしゃっているような状況なのである。まるで私立大学に高度な人材育成など任せられないとでも言わんばかりであり、さすがは国立の面目躍如といったところである。まさにそのような態度こそが地方国立大学の再編論を加速させているとも言えるわけだが、一体いつになればそのような状況を自覚するのだろうか?
自分の所属する大学がまさに無くなるその時まで自覚することはないのかもしれないが、地方における文系教育の危機を訴える方々の心配を余所に、文系の灯は地域の拠点たる覚悟を持った私立大学が灯し続けることだろう。
無くなるのは今のままの文系学部学科に固執する方々のポストだけなのである。