スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

大学ランキング狂想曲2016年編

THEランキングで東大がアジア1位から7位へと転落して、いつもの界隈からは日本の大学がランキングを落とすのは文部科学省の愚策のせいだという大合唱である。

それはそれで見物していれば良いのではあるが、しかし今年のランキングを見てみると、ややこれまでの傾向とは違っているようにも見える。

巷で騒がれているように、東大、京大、阪大など、旧帝大をはじめとする多くの大学が軒並みランキングを下げているのはその通りである。しかしその一方、スーパーグローバル採択組では、ダメ帝大のレッテルを貼られかけていた九大(58→48)・北大(63→49)、筑波(48→46)・広島(78→73)の旧高師がランキングを上げ、スーパーグローバルのトップ型に名乗りを上げたものの落選した東京農工大に至っては圏外からの爆上げランクイン(97位)を果たしており、一部の方々にとっては実に不都合な事実となっている。

これをどう評価するかというのはもちろん議論のあるところであり、文部科学省の近頃の政策や大学改革の大成果であるなどと言うつもりはない。しかし、おそらく大学で起こりつつあるなんらかの変化を反映したものであることを否定する余地は無いだろう。

むしろ心配なのは、先の「ランキングが下がるのは文科省のせい」だと言う同じ口で「ランキングが上がるのは文科省のおかげではない」というような都合の良いことをなんの抵抗もなく言いそうな方々の存在である。

もう少しまともな議論をしてもらいたい。そんなことばかり言っているから役に立たないだのなんだの言われるのである。

ただ、外野の騒ぎはともかく、少なくとも文部科学省には、上がった根拠を冷静に分析した上で、政策の改善に生かしていただきたいものであるし、成果や必要に応じて支援を上積みする姿勢を見せていただきたいものである。

もっとも、THEのランキングにおいては上に挙げた大学以外にも圏外からのランクインが見られるなどしたものの、QSのランキングではほぼ壊滅状態で東工大と一橋大以外は軒並みランキングを下げているのも事実であり、世界100位を目指すと言いつつ、実態としてはアジア100位を維持するだけで精一杯ということも否定しがたい現実である。あまり毎年のランキングで一喜一憂しても仕方がないということは間違いなく、各大学並びにその構成員であるところの教職員は、粛々と自分の果たすべき役割を果たすしかないのである。

率直に言えば、文部科学省に文句ばかり言っている方々に限って足を引っ張っている傾向はあるようにも感じられるので、そういう優秀な方々は、いち早く教育研究の先進地であるらしいところの欧州の大学にでも移籍されるのがよかろう。

実はそうした面倒な方々を追い出すことがランキングを上げる近道であったりするのかもしれない。

来年のランキングもぜひ生ぬるい目で見守っていただければ幸いである。

 

椅子取りゲームに勝つ方法(教員編)

大学に学生として入ることは容易になった。その反面、教員として大学に入ることはずいぶん難しくなった。

大学に所属する研究者のポストというのは、それを希望する人数に比べると圧倒的に少なく、当然のことながら大学教員を目指した「就活」においても、熾烈な競争が繰り広げられている。

その昔、大学教授になる方法という類の書籍があったが、大学でポストを得るための方法というのは、今ではずいぶんと様変わりしているように思う。

非常勤講師をステップにしてその大学の常勤に、というかつてはそれなりにあり得たルートは、ほぼ消え去ったと考えたほうが良い。非常勤で回している科目・分野であれば、あえて常勤を雇って提供されるようになることはおそらくない。語学系もおそらくネイティヴの外国人教員のポストになっていくことだろう。

今でもコネ入社というべきかたちで採用される者もいないわけではない。学会などで人脈を広げることも依然として有効な手段の1つではある。少なくなったとはいえ、特定の大学出身者で固めている組織もまだある。

だが、そうした人事のあり方は、明らかに時代遅れなものになりつつあり、例外と言うべきものになってきている。出来レースではない公募での採用はこれまでになく増えているし、今後も減ることはないだろう。

したがって、今の時点で応募する立場からすると、相対的に優れた業績を積み上げることと、公募を出している組織が、建前として公募しているのかどうかを見極める目が必要となるだろう。

多くの大学では、所属する教員の業績は基本的に公開されている。出身大学なども公開されている情報から把握できることが増えた。職階に応じてどの程度の業績を持っているか?ということは、自分の業績と比較して、採用される可能性があるかどうかの一つの指標になるだろう。(ただし、定年間際の勤続年数の長い教員の業績が無いとしてもそれはあまり参考にはならない)特定の大学出身者への偏りが明らかな場合、同窓というハンディをしばき倒せるだけの圧倒的な業績があれば可能性はあるかもしれない。

ただ、先の就活エントリにも書いたことであるが、大学においても相性というものはある。

選考する立場からすると、業績は申し分ないとしても、テニュアで長いお付き合いをする可能性があるとなれば、性格的に今の教員組織にうまく馴染むことができるかどうかというのは大きな判断要素である。また、特に「多様な」学生を抱えている大学であればあるほど、柔軟に学生対応ができるかどうか?国公立大学や大規模な大手私立では縁のないような地道な営業活動に適応できるか?という点は極めて重要である。どんなに優秀な研究者でも、組織にうまく馴染めなければ力を発揮してもらえない。個人的にはあまり良いことであるとは思わないが、組織を同窓で固める理由として、価値観を共有していると言うことはあるだろう。

しかし、だからと言って業績はなくても目を瞑るということにはならない。まともに公募すれば、それほど著名な大学ではなくとも、業績的には甲乙つけ難い、なぜこの人たちが常勤のポストを得られないのか?というような優秀な方々から多数応募が来るのである。その中から、最も組織に馴染めそうな人を採用するということであって、業績が無いにも関わらず採用されるようなことはない。

大学の教員であれ、専業の研究者であれ、プロフェッショナル職である以上、業績のない者には人権は無い世界である。業績の無いものが「ポストを得られないのは差別だ!」と叫ぶのはもちろん自由だが、それは当然のことであって、業績が無いものに居場所など無いのである。

先の採用の話に戻ると、面接までしたにも関わらず、組織との相性の部分で残念ながら不採用となった方々も、その後みなさんそれなりの大学でポストを得ていらっしゃることは注目に値する。したがって結論は一つ。

業績を稼げ!そうすればいずれポストは得られるであろう。

いずれにせよ、テニュアのポストが得られたとしても、継続的に研究業績をあげ続けなければ、もはや生きてはいけない時代である。ポストの有無にかかわらず、業績を稼げないものに未来は無い。

就活に失敗したと泣き叫ぶエゴ

6月1日に解禁となったはずの企業による新卒採用の選考活動。実態としては多くの著名な企業はすでに選考も終了しており、その時点で実質的に内定が解禁される事態となった。

例年このタイミングで就活に失敗したという、当人にとっては深刻であるが、客観的には実におめでたい話がよく聞こえてくる。

確かに、あまり熱心に就職指導などしてくれない著名&大規模な大学に在籍する学生にとっては、就活サイト経由での就活が終わった後は企業とのコンタクトの手段が限られてくるので、「就活オワタ」状態となってしまう面はあるだろう。

その一方で、いわゆる就活サイトでの選考過程では学歴フィルターで門前払いされてしまうような、名前の知られていない大学に所属する学生達にとっては、これからが就活本番である。キャンパス内での在学生向けの企業説明会もこれからまだまだ開催される。就職率が学生の集客に直結する時代であればこそ、こうした大学では就職活動における面倒見の良さが重要となるからである。

また、コスト的に就活サイトへの参加が難しい企業にとっても、いわゆる有名大学卒ではないとは言え、一定の能力を備えた学生というのは、第一次の選考でもれた(すなわち有名大学に在籍はしているが、決め手に欠けるもしくは採用を見送るだけの何らかの理由がある)学生以上に、人事戦略上は重要な存在である。

客観的に見るとそのような状況下において、自分がまだ内定を獲得できていないからといって「就活に失敗した!」「人生終わりだ!」というような発言を平気でしてしまう学生というのは、気の毒だとは思うが、自分自身をしっかりと見つめなおしてもらうしかない。

聞こえのいい嘘ばかりつけるやつが内定をもらって正直者の自分がバカをみた、という主張も理解できないわけではない。
しかし、会社の将来をかけて選考している採用担当者も馬鹿ではない。嘘をつくのが下手だったことだけが内定をもらえなかった理由であるかどうかは疑問が残る。

自殺したくなるほどにアイデンティティが崩壊してしまうのは、自分たちがそれまで見下してバカにしていたはずの、彼らが二流大学とみなしていた大学に通っている学生たちと、一流とされる大学に所属しているのだから一流であるはずの自分が、あろうことか同じスタートラインに立たされている、という現実を受け入れることができないからであろう、という指摘は否定し難いのではないかと思う。

そして、そのような態度は、おそらく本人が気づかないところで、まともな企業には見ぬかれており、採用を見送られる理由となっていてもおかしくはない。

なにしろ、自分が走っていたと信じていたレールからちょっと外れただけで人生が終わったと半狂乱で泣き叫ぶ人間とまさに同じ場所で、さあこれからが本番だ、という人間はいくらでもいるのである。
そうなったらなおさら企業がどちらの人間を採用するかといえば、その答えは明らかであろう。

面接室の中でしか選考されていないと信じている学生も少なくないようであるが、彼らが考えている以上に、あらゆるところが見られているものであり、失敗を生むのは自分自身であるとしか言いようがない。

しかしそれでもやはりなお救いは残されている。
就活は人と企業の出会いである以上、タイミングや相性というものがある。あなたがどんなに優秀であったとしても、企業の要求とマッチしなければ採用されないということは事実としてあり得る。

自分自身を見つめなおし、社会的に評価の高い組織に所属することが自分の評価につながるわけではないと気づく日が、そして、ありのままの自分を必要としてくれる組織で働くことが自分にとって幸せなことなのだと気づく日が、自殺する日より先に来ることを切に願う。

管理屋より猛獣使いを

ソニー退潮の要因を、上に立つリーダーが数字による管理ばかり重視する経営姿勢に見出す、技術畑出身で副社長まで務めた大曽根氏のインタビュー。彼の発言は昨今すっかり管理屋が跋扈する業界になりつつある国立大学法人ならびに文部科学省の全関係者が一読する価値があるだろう。

business.nikkeibp.co.jp

イノベーションや卓越した研究を計画的に生み出すことなど不可能であるし、数値目標を立ててどうなるものでもない。そもそも計画的に実現できる程度のことであればイノベーションにはならないのである。

国立大学には限らないが、競争重視の教育・研究環境支援は、ピアレビューによる外部評価という側面は一定の評価をするべきではあろうが、結果として短期的な成果を過度にすることにつながり、それは長期的にはわが国の教育・研究の停滞を招くだろう。

大学、特に国立大学界隈は、これまで業界としてシステム全体の最適化や改善ということに対してあまりに無頓着であったがゆえに、その改革は不可欠であることについては疑問を差し挟む余地はない。ただ問題はその改革に対する方法論であって、そもそも工場などの生産現場での業務改善手法を高等教育機関に応用することの限界も明らかになりつつある。

PDCAが必要であることも否定はしないが、大学においてPDCAが必要となる場面があるとすれば、研究よりはむしろ教育に関する部分であろう。研究と教育とを同じ手法で改革していこうという戦略にもすでに限界が見えている。

また、国立大学等が導入しようとする業務管理の方向性にもやや問題がある。広島大学のアレと揶揄されたKPIの導入は、改革の必要性と言う大学経営上の危機感には賛同できる部分もないわけではない。大学人らによるほぼ全面的とも言える拒絶反応は、大学における意識改革の必要性の証であるとも言えるだろう。クビにしたほうが良い人材を多数抱えていながら解雇はできないというのが国立大学経営の最大のネックであるのは事実である。しかし、公開されている情報から広島大学のKPIの実装について読めば読むほど、現場の抵抗、あるいは構成員のモチベーションの低下を招くだけに終わるのではないか?という感想しか出てこない。

組織のパフォーマンスは、ある程度数値化して客観的に把握する必要があるというのは、小規模大学ならともかく、旧帝大官立クラスの国立大学の規模であればやむを得ないのかもしれない。しかし、それでもやはり実際に動くのは現場の人間であるということを忘れるべきではないし、人材を育成する教育機関は、工場の生産ラインとは違うのである。

文部科学省も国立大学のリーダーとしての資質に問題が出てきていることを理解し始めているようではある。

イノベーション経営人材育成システム構築事業:文部科学省

しかし、そもそもイノベーションを生み出す経営というものが、わが国においては民間でさえ困難であるという現状認識はあるのだろうか?

現在のわが国の多くの国立大学は、早く辞めていただきたい困った高給取りを多く養っていることも否定はしないが、才能ある奇人変人を多数擁しているという点においてかつてのソニーに負けてはいない。

大曽根氏の主張の中心は、人が変われば組織は(良くも悪くも)生まれ変わるということに尽きる。重要なのは、上に立つリーダー、大将の姿勢である。

国立大学のリーダーに求められるのは、成果を数値で判断するタイプの温室育ちの管理屋ではなく、むしろ野生の経験と勘にもとづいて奇人変人をおだててあしらいながら導くことのできる猛獣使いである。

憂慮すべきは多くの大学の理事の面々を見る限り、猛獣使いより温室育ちばかり目立つことであり、レスリング出身の文部科学大臣ならば、いまこそその本領を発揮すべき時と言えるかもしれない。

残念な大学教員

出来レースではない公募案件も増えてきた昨今では、比較的少なくなってきたようにも思うが、それでもやはり教育に携わる資質に疑問符がつくような大学教員というのは存在している。

 
なにより学生をバカアホ呼ばわりする教員というのは、救いようがなく、一刻も早くご退職願いたいものである。しかし、信じがたいことかもしれないが、講義で「お前らはバカだからこんなことを言ってもしょうがない」といった発言を平気でするような大学教員というのは実在する。もしその発言内容が事実であるとすれば類は友を呼ぶという以外に言葉が見つからないわけだが、ご本人にそのような自覚のなさそうなことは重ね重ね残念なことである。

そしてこのような残念な教員問題というのは、大衆化に伴う基礎学力の低下とまったく無関係であるとは言わないが、全入時代が訪れる前から、この種の発言をする大学の教員というのは存在していたことから考えると、それほど関係があるわけでもないのである。
 
大学の教員のなかには、果てしなく優秀な学生しか教えられない人がいる。つまるところ放っておけば良い学生なら担当できるということであって、人を育てる力というのは皆無なわけであるが、そのような教員の生きられる場所というのは今後大学には存在しなくっていくだろう。もちろん、そうした教員も、研究能力の有無はまた別の問題であり、本来は純粋の研究機関に所属することが本人にとっても学生にとっても幸せなことだろう。ただ、経験上、教育に熱心な教員というのは研究面でも優秀な人が多いようには思う。
 
先日、福岡教育大学で全教員に附属学校での研修を義務付けるといった話もあり、その件については批判的に伝えられることが多かった。しかしその一方で教育の資質に欠ける大学教員をどうするのか?という問題が存在することから目を背けて良いわけではない。
 
公募時の採用面接でもかなり詳細に教育する力を問われるところはあるし、FDなどの取組も進んできてはいるが、こうした研修制度の限界というのは明らかである。
積極的に研修に参加するのは熱心で上手な人ばかりであり、本当に必要な人に限って我関せずという態度であったりすることから、差は開くばかりなのである。
 
そしてこうした残念な教員というのは、あらゆる責任を学生に転嫁するという特徴がある。
 
授業中、学生の私語が多い、居眠りをする学生が多くて、授業をする気が失せる、と言った類の発言をする教員は以前に比べると減ってきたようには思うが、学生が私語をしたり居眠りをしたりする理由は一つしかない。
 
担当している教員の授業が面白くないからである。
 
学生の関心を惹きつけることに失敗しているのは、純粋に教員の問題であって、学生の問題ではない。
関心のない学生に対して、その学問分野の魅力を伝えることこそ教員の役割であろう。関心を持てば、人は自ら学ぶものである。それは基礎的な学力の有無とは関わりがない。基礎的な学力が低いというのは、それまで学ぶことに対して関心を持つ機会がなかったに過ぎない。その機会を与えることこそが、教員の役割である。
 
学ぶことの喜びを伝えることは、初等中等教育の段階でなされるべきことであって、大学の教員の役割ではないという意見もあるかもしれない。
しかし、単なる知識の伝達では無く、自ら学ぶきっかけを提供することは、大学の役割として決して否定されるものではないだろう。むしろそれは本来あるべき大学の姿に近いものである。
 
大学を本来あるべき姿とは異なるものにしているのは、学生でも文部科学省でもなく、教員の方かもしれないという問題意識は失わないようにしたいものである。

これで大学と言えるのかと言われて

一昨日あたりから、初年次教育の観点から、大学の大衆化の現実について論じた記事が話題となっている。


この記事では、初年次教育を対象としているようだが、一般には、これで大学と言えるのか?と言った指摘は、初年次教育よりはむしろリメディアル教育に向けられるものだろうと思う。
リメディアル教育の必要性は、もはや全入が前提となった私立大学に限った話ではなく、国立大学を含めたあらゆる大学が向き合うべき課題である。

すでにFランの逆襲で述べたとおり、どの大学においてもAO型の入試で入学してくる学生の基礎学力はかなり怪しい。

そしてそれは悲しいかな、例えば研究大学やスーパーグローバル大学と言った日本の(あるいは世界の)トップクラスを目指そうかという大学においても例外ではない。
まして私立大学ともなれば、AO組でなくとも、受験に必要のない科目など全く関心もなければ勉強もしていない、教養のかけらもないタイプの学生はいくらでも存在している。

さすがにまずいという自覚はあるのか、一部上位の私立大学では、少ない科目の枠組みの中で、受験科目には上がらない分野も含む多様な知識の体系を問うタイプの問題が出題されるようになってはいる。とは言え、英語や国語、歴史と言った枠組みで微積分の知識を問うようなことはどう考えても無理があることは誰の目にも明らかである。

そうして、特に数学や英語に関しては、大学での授業に必要なレベルに達していない学生への対応として、リメディアル教育が求められることになる。
もちろん、本来高校までに学んでいるべき教育を大学が提供することについて、それで大学と言えるのか?と言った批判はもっともなのだが、社会的な背景を考えると、これらの科目群は今の大学にとって必要不可欠なものであるし、若干の誤解もあるように思う。

文部科学省としては、本来高校までに学んでいるべき内容の授業については、卒業のために必要な単位として計上すべきでないという姿勢を明確にしている。
したがって、こんなことを教えていて大学と言えるのか?と言われるような内容の授業を受けたとしても、さすがに大学を卒業するための単位としては認められないと言う建前なのである。
実際、リメディアル教育の位置付けではなく、一般の開講科目であるにも関わらず、あまりに初歩的な内容をシラバスに記載していた大学に対しては、是正するよう指示が出されている。

他方、初年次教育について述べるならば、レポートの書き方やプレゼンテーションの作法については、そもそも学力がどうこう以前に学ぶ必要があるものである。
「そんなことは大学では教えなくても自分で学んでいたものだ」と偉そうに言っている世代の悲惨な講義やプレゼンテーションを見れば、その必要性は一目瞭然である。
プレゼンテーションに関する社会人向けのセミナーやハウツー本の多さもそのニーズや実態を反映しており、明らかに大学で教育する意義がある。
論文やレポートの書き方について教える必要性については、昨今の研究不正のニュースを見れば、あえて指摘するまでもないだろう。

大学教育への動機づけについても、特に私立大学では初年次の定着度がその後の休退学数に直結することから、経営戦略上も不可欠なものである。
もちろん、お友だち作りまで手助けをしなければならないのか!?という指摘はもっともであるが、お友だちのいない学生ほど休退学に至る確率が高く、それもまた経営上無視することなどできないのである。

このようにして考えてみると、リメディアル教育についてはともかく、初年次教育については必ずしも大衆化によってもたらされたものということでもなく、大学がただ学生を放置しておく場から、積極的に関わりながら教育する場へと変化したことの表れであるに過ぎないようにも思う。

このあたり、大学の大衆化という社会の側から来た変化と、大学における教育の実質化・質の保証という文部科学省の主導する変化がほぼ平行しているので、長らく大学から離れている方々に対しては、大学をめぐる変化について、もっときちんと伝える努力が必要なのだろう。

とはいうものの、今の大学教員は昔の大学教員と違って実に大変なのだという意味においては同じである。
合掌。

地域志向の功罪

地(知)の拠点(大学COC)事業の募集や、新課程の廃止にともなう学部・学科再編等により、地域を志向した学びを実践する学部学科が雨後の筍状態である。

地方の国公立大学の生きる道として、方向性そのものは間違いではないが、問題はアクティブラーニングだ、プロジェクトだ、と言って、十分な準備もなく地域のフィールドへ学生が放たれることである。
学生だけならまだ良いが、そもそもそうしたフィールド型の教育や研究を実践したことのない教員まで一緒に放たれると目を覆うばかりの惨状となる。

「地域の皆さんにお話を聞きましょう!」
「困っていることはなんですか?」
「みんなで地域の課題を話し合いましょう!」
「どうやったら解決できるか考えてみましょう」

このような何も考えていない授業ばかりが登場し、毎年同じことが地域で繰り返されることになったりするのである。
3年目くらいにもなれば、

学生「困っていることはなんですか?」
地域「お前らの存在」

という答えも出てきそうな勢いである。

本当に困っている課題を抱えた地域があり、地域だけでは解決することは困難で、それを解決に導くだけの能力のある教員がリードするプロジェクトであれば、学生を巻き込んでやる価値があるだろう。実際、そういう教員が成果をあげているところも無いわけではない。

しかし問題は、やりたくは無いけれど地域を志向した学びを実践しなければならなくなった大学には、学生たちがなんちゃって課題解決型学習しましたという成果が出せれば良いという程度の覚悟しかないことである。

これが実際に地域の方々自身が自ら率先して課題解決に取り組んでいる地域の現場であったりすると、学生たちが大学の授業と称して入ってこられるのは迷惑でしかない。
むしろ、そのような組織には、学生をインターンとして送り込む方が双方にとってメリットが大きいはずなのだが、そのあたりの地域の実情を踏まえたマッチングやマネジメントすらまともにできないような地域系学部学科というものがこの世に少なからず生み出されていることが頭の痛いところである。

まずは学生たちと、自分たちの学部学科の課題解決から始めるのが最良の教材となるはずで、地域に出る前に学内で課題解決型学習を実践することが大学にとっても地域にとっても有益であろう。