スーパーグローバル学部増田准教授

いかれた大学教員の思いつき

奴隷化する学生たち

近年、と言ってもここ数年だろうか。賃金ゼロもしくは不当な対価で学生の労働力を搾取しようという動きは、さまざまな形で企業から繰り出されてきている。

先のインターンシップ地獄で述べたように、インターンシップと称して、正当な対価を支払うことなく学生たちを働かせるというのはその一形態にすぎない。

残業代を払わない、本来正社員が果たすべき責任を押し付ける、と言ったブラックバイト然りである。

これらはある程度メディアでも取り上げられるようになりつつある。

しかしもう一つ、大学に勤務していて近年目に余る企業の労働搾取形態がある。

 

内定者の奴隷化である。

 

特にこの数年くらい、内定した学生を呼びつけ、内定者のグループでなんらかの活動に従事させたり、あるいは通常業務に配属して勤務させるような事例すら見かける。

交通費程度は支給されることはあるが、当然給与などは支払われない。

建前としては、もちろん内定者向けの研修ということになっている。しかしながら、本来ならばアルバイトで従事するような内容であることもあり、また新人研修であるとしても、それは本来採用後に給与を支払いながら実施するべきものである。

まして、卒業研究に支障をきたすようなことがあるとなればもはや本末転倒である。

それでも内定した学生からすれば、内定を取り消されることを恐れて断ることができない。

企業にとっては、学生のうちから給与を一銭も支払うことなく、自分たちに逆らわない都合の良い社員を育成することができるわけである。

ブラックバイトなどにすっかり慣らされた学生たちのほうも、在学中にこうした研修を受けることについて、それほど抵抗がないように思える。悲しいかな、就職活動がほぼあらゆる学業に事実上優先されるような状況において、彼/彼女らにとって、それはほとんど就職活動の延長線上にあるものだ。

もちろん当の学生たちが声を上げることも必要かもしれない。どんどん晒してもらいたい。しかし、周りの大人も声を上げなければ、単純にそういうものだと受け入れたまま社会に出て行く学生たちは、将来にわたって同様の仕組みを再生産していくことだろう。

それは社会全体にとって望ましいことではない。企業の側には自浄能力など望むべくもないかもしれないが、それでももう少しまともな対応を望みたいところである。

 

左派の憂鬱と多数派幻想

参議院選挙が終わった。

旧来型の左派知識人も未だ多数生息している大学界隈からは、当然のごとく嘆きの声が上がっている。

勝てないのは翼賛メディアのせいだとおっしゃる皆様には残念な結果なのかも知れないが、野党共闘は大善戦したと言うべきだろう。激戦の1人区で、予想以上に多くの議席を確保した。

その反面、今回初めて選挙に参加した18歳19歳に関しては、圧倒的に与党支持と言うのも、リアルな現実を反映していると言えるだろう。シールズ界隈が「若者の代表」ではなく「学生運動をこじらせて年老いた左翼の代弁者」であることは誰の目にも明らかになった。このリアルな現実を受け入れられないところに、「リベラル」の敗因があるといつになれば気付くのだろうか?

ところで大学という場所には、社会の現実とは随分かけ離れた世界がひろがっている。そのような状況下で、長らく大学は左派知識人の拠点となってきた。そもそも、知識人といえば左派であることが前提であるような時代があった。そのような文脈で生きる人々にとって、日常的に接するのは左寄りの思想をベースにしたコミュニティであり、自らと思想的基盤を共有する人々が大半であった。そして、マスメディアへの一定の発言力によって、オピニオンリーダーとしての地位も確保されていた。

自分たちが社会(の世論)を導く存在であり、またマジョリティであるかのような幻想を抱いてしまったとしても不思議ではない。

そしてそのような状況は、Twitterをはじめとするソーシャルメディアにおいて、自分たちと思想を異にする層の発信する情報を遮断し、仲良しクラブの気の合う意見だけを見聞きしながら多数派幻想に溺れる現在の状況へと着実に受け継がれている。

しかし、そうしたマイノリティの閉じた世界での馴れ合いに気分を良くしていた皆様にとっては大変都合の悪いことに、大学界隈も社会の状況も、現在では随分と趣が異なっている。

少なくともかつてのようなメディアでの発信力は失われ、いわゆる左派の主張を否定するような主張を見聞きする機会も増えた。しかし、自分たち知識人というのは社会において基本的にマイノリティであるという自覚に決定的に欠けており、自分たちの発言力の低下をメディアの体制翼賛化という言葉で表現する以外の方法論を持たない。

また、知識人層(あるいは大学の教員層と言い換えても良い)としても、思想的に左端にいるような旧来型知識人だけでなく、中道もしくは右寄りの思想を持つ人が増えてきた。そしてそのような状況を目の当たりにして、単に社会全体と自分の立ち位置を客観視できていないだけであるにも関わらず、こちらも社会が右傾化していると言うだけで、現実を受け入れることができない。

自分自身も知識人であるかどうかはともかく、大学の教員として、旧来型の左派知識人からすれば明らかに右寄りの思想の持ち主ということになることは否定しない。現実問題としてネオリベ呼ばわりされることは普通にあるし、それはそれで好きにしていただいて良いとは思う。しかし、自称リベラルな方々は、自分たちが思っている以上に、真ん中よりはかなり左端に近いところにいる空想的理想主義者であるという自覚をお持ちいただいた方がよろしいかと思う。そのような自覚なくして、パヨクだのお花畑だの揶揄される状況を脱することはない。

自分たちの思い通りにならない現実を目の前にして、ファシズム化が進んでいる!翼賛体制だ!と叫ぶのはもちろん自由なのだが、その当然の帰結として、自らが信じる民主主義のもとでマイノリティとして負け続け、民主主義に裏切られ続けることになる。

そのような彼らの勝利が現実のものとなる日が来るとすれば、それは彼らがファシズムから(愚かな)大衆を解放するという大義名分のもと、民主主義を自ら破壊する時であろう。

それこそ悪夢以外の何物でもないが、民主主義はまさにそのようにして破壊されてきたということをすでに私たちは知っている。左端にいる自称リベラルな学者や知識人のみなさまがたや、反対側の右端の方々にとっては非常に都合の悪いことかもしれないが、ごく普通の市民であるところの私たちにとっては不幸中の幸いである。

インターンシップ地獄

近頃は就業力であるとか社会人基礎力であるとか、大学生が求められる力のインフレーションが加速しており、やれプロジェクトだ、やれインターシップだなんだと、OTJ的なプログラムが盛んに推奨されている。

もちろんその背景には、ほとんどの卒業生が正規の終身雇用で就職していった高度成長期には考えられないような3年離職率の高さであるとか、意識が高いだけで就社してみたら思っていた仕事と違ったというようなミスマッチであるとか、様々な理由があることは確かである。

しかし、地域でのプロジェクトにせよ、インターシップにせよ、社会に様々な歪みをもたらしていることもまた事実である。

地域系のプロジェクトの問題については地域志向の功罪 - スーパーグローバル学部増田准教授で述べた通りであるが、インターシップに関しても、多くの大学で正規の課程に取り込まれ、大量の学生がインターシップの原野に放たれてしまったことにより、企業にとっても学生にとっても、必ずしも望ましいものではなくなってしまっている。

企業からすれば、本来インターシップで受け入れた優秀な学生には、それなりの待遇を用意してでも卒業後の就職につながればメリットは大きい。

しかしながら、インターシップに参加する学生というのは、もはや一部の優秀な学生たちだけではなくなった。インターン学生を受け入れる企業からは、なぜ我々が大学の教育に付き合わなければならないのか?授業料をもらわなければ割に合わない、といった声もしばしば聞かれるようになった。

一方、企業のほうもインターシップの学生をタダで使えるアルバイトくらいにしか考えていない企業があるのもまた事実である。それでも、安い労働力を使いたい企業と、インターシップでとにかく学生を送り込みたい大学の利害が一致してしまうと、当事者であるはずの学生だけがそっちのけということになる。

そうなってくると、インターン学生にアルバイト以上の働きを求めること自体、もはや不可能というものであろう。企業から大学へはクレームの嵐というのは、当然の帰結である。

こうして、受け入れ企業、送り出す大学、インターン学生、誰も得しないインターシップ地獄が今年も各地で展開するのである。

現在の大学や企業をめぐる情勢からしてなかなか難しいとは思うが、大学側も課程に組み込んで送り出すインターン学生には責任を持ち、企業側もきちんとインターン学生を選抜し、その代わり働きに応じて報酬も出し、特に優秀な学生に対しては卒業後に向けて何らかのキャリアパスを用意するような、本来あるべきインターシップのかたちが定着して欲しいとは思う。そしてそれが歪みきった就職活動に変化を生み出すことができれば何よりである。

 

7月14日加筆

http://business.newsln.jp/news/201607131705260000.html にもあるように、インターンシップのモデルともいうべきアメリカにおいても、野放しにするとインターン学生を奴隷として使おうとする企業があることに変わりはないようだ。

タダ働きでしかインターンになれないような学生は就職できないというのもまた厳しい現実である。

非常勤講師を待ち受ける未来

すでに時期を逃した感はあるが、大阪市立大学における非常勤講師の契約を巡り、非常勤講師の外注化を目指しているという計画が明らかになって、以後、TwitterのTLなどにも非常勤講師の待遇に関する発言がよく流れて来ていたので、少し書いておこうと思っているうちに時間が経ってしまった。

大阪市立大学が講師の外注を計画 組合は黙認しない

TLの反応を見ていると、非常勤の外注化の是非とともに、非常勤講師の待遇に関して、多くの関係者は問題意識を持っていることは分かるし、それは私自身も共有する。

しかし、現実的には、非常勤講師という不安定な立場に置かれている方々へのシンパシーの有無など問題でなく、大学の経営陣にとってこれが極めて効果的な選択であるということが問題なのである。

近畿大学に新設される国際学部でも、ベルリッツとの提携を打ち出し、その衝撃的な広報が話題を呼んだ。しかしこれは広報戦略の影に隠れてはいるものの、提携という名のもとで、非常勤で雇うはずであった講師を外部化することこそが重要であるように思う。

近畿大学 国際学部

このような講義の提供形態には多くの大学が後に続くことだろう。

まずは英語など外国語のパッケージを外注するところから始まると思われるが、今後、より広範な科目を提供する企業が現れ、導入する大学が続々と出てくることだろう。一般教養のパッケージを大学向けに提供すれば、かなりの需要があることは明らかである。個人の顧客が急減している予備校・塾産業にとっては大きなビジネスチャンスであるだろう。

まともな大学人であればあるほど、そのようなサービスを外注する大学があるか?そのようなサービスを提供する企業がありうるか?と問いかけたくなる気持ちも理解できる。しかしながら、すでに入試問題の作成を外注している大学があり、入試問題作成をサービスとして提供する企業があるのが現実である。非常勤講師に頼りがちなカリキュラムのパッケージに需要が無いはずはなく、需要があれば喜んで供給する企業は出てくるものである。

労働契約法の改正により、雇い止め問題を回避したい大学のニーズにもマッチしており、おそらく非常勤の外注化は多くの大学に広がっていくことだろう。

もちろん、非常勤を外注化することによって発生しうる問題、すなわち、非常勤講師としての待遇や大学教育の質をどう考えるのかというのは、まったく別の問題である。

個々の講師の方々の受け取る報酬は明らかに下がるだろう。現時点ですでに不安定な立場にある非常勤講師の方々は、ますます厳しい状況に置かれることになる。非常勤として勤務しながら常勤の研究者を目指しているような方々は、研究者としてのキャリアにほぼ完全に終止符が打たれると言っても良いだろう。

一方、授業の内容については、コントロールしやすくなる面もあれば、そうでない面も出てくるだろう。その点は契約の形や金額にもよるであろうし、大学の姿勢次第というところが大きくなるだろう。ただ、契約で示されたことだけを忠実に行う教育というのは、長期的には教育の質を低下させるだろう。

このような事態に直面して、非常勤講師の待遇改善を目指すべきであるという立場からの発言も少なくないことは、大学コミュニティの救いではあるのかもしれない。しかしながら、非常勤講師の待遇改善を目指すということは、残念なことではあるが現実には以下ようなプロセスを加速するだけのように思う。

1)専任の教員が担当するコマ数を出来る限り増やし、2)カリキュラムをスリム化して大学全体で開講される講義数を削減し、3)非常勤講師に任せる必要のある講義を出来る限り減らす。

待遇改善の実現以前に、この変化はすでに多くの大学において見られるものであり、そもそも非常勤講師という職種の存立そのものが怪しい状況になりつつある。

近い将来、大都市圏においてさえ、専業の非常勤講師として生活していくことは困難になり、大学の非常勤講師というのは非常に稀な職業となっていくだろう。

国公立を含め、大学の未来そのものが厳しいとはいえ、そのなかでも特に非常勤講師として勤務している方々には厳しい未来が待ち受けていると言わざるを得ない。

それでもなお、非常勤講師の方々の待遇を改善すべきであるという主張があることは理解はできる。しかし、それは多くの大学の整理・再編・統合と引き換えにしか実現しない。逆に言えば、そうすることによって、現状以上に非常勤講師の方々の待遇を改善することは可能かもしれないが、当の非常勤講師はもちろん、専任の教員の絶対数も減るという現実を理解することも必要である。

大学ランキング狂想曲2016年編

THEランキングで東大がアジア1位から7位へと転落して、いつもの界隈からは日本の大学がランキングを落とすのは文部科学省の愚策のせいだという大合唱である。

それはそれで見物していれば良いのではあるが、しかし今年のランキングを見てみると、ややこれまでの傾向とは違っているようにも見える。

巷で騒がれているように、東大、京大、阪大など、旧帝大をはじめとする多くの大学が軒並みランキングを下げているのはその通りである。しかしその一方、スーパーグローバル採択組では、ダメ帝大のレッテルを貼られかけていた九大(58→48)・北大(63→49)、筑波(48→46)・広島(78→73)の旧高師がランキングを上げ、スーパーグローバルのトップ型に名乗りを上げたものの落選した東京農工大に至っては圏外からの爆上げランクイン(97位)を果たしており、一部の方々にとっては実に不都合な事実となっている。

これをどう評価するかというのはもちろん議論のあるところであり、文部科学省の近頃の政策や大学改革の大成果であるなどと言うつもりはない。しかし、おそらく大学で起こりつつあるなんらかの変化を反映したものであることを否定する余地は無いだろう。

むしろ心配なのは、先の「ランキングが下がるのは文科省のせい」だと言う同じ口で「ランキングが上がるのは文科省のおかげではない」というような都合の良いことをなんの抵抗もなく言いそうな方々の存在である。

もう少しまともな議論をしてもらいたい。そんなことばかり言っているから役に立たないだのなんだの言われるのである。

ただ、外野の騒ぎはともかく、少なくとも文部科学省には、上がった根拠を冷静に分析した上で、政策の改善に生かしていただきたいものであるし、成果や必要に応じて支援を上積みする姿勢を見せていただきたいものである。

もっとも、THEのランキングにおいては上に挙げた大学以外にも圏外からのランクインが見られるなどしたものの、QSのランキングではほぼ壊滅状態で東工大と一橋大以外は軒並みランキングを下げているのも事実であり、世界100位を目指すと言いつつ、実態としてはアジア100位を維持するだけで精一杯ということも否定しがたい現実である。あまり毎年のランキングで一喜一憂しても仕方がないということは間違いなく、各大学並びにその構成員であるところの教職員は、粛々と自分の果たすべき役割を果たすしかないのである。

率直に言えば、文部科学省に文句ばかり言っている方々に限って足を引っ張っている傾向はあるようにも感じられるので、そういう優秀な方々は、いち早く教育研究の先進地であるらしいところの欧州の大学にでも移籍されるのがよかろう。

実はそうした面倒な方々を追い出すことがランキングを上げる近道であったりするのかもしれない。

来年のランキングもぜひ生ぬるい目で見守っていただければ幸いである。

 

椅子取りゲームに勝つ方法(教員編)

大学に学生として入ることは容易になった。その反面、教員として大学に入ることはずいぶん難しくなった。

大学に所属する研究者のポストというのは、それを希望する人数に比べると圧倒的に少なく、当然のことながら大学教員を目指した「就活」においても、熾烈な競争が繰り広げられている。

その昔、大学教授になる方法という類の書籍があったが、大学でポストを得るための方法というのは、今ではずいぶんと様変わりしているように思う。

非常勤講師をステップにしてその大学の常勤に、というかつてはそれなりにあり得たルートは、ほぼ消え去ったと考えたほうが良い。非常勤で回している科目・分野であれば、あえて常勤を雇って提供されるようになることはおそらくない。語学系もおそらくネイティヴの外国人教員のポストになっていくことだろう。

今でもコネ入社というべきかたちで採用される者もいないわけではない。学会などで人脈を広げることも依然として有効な手段の1つではある。少なくなったとはいえ、特定の大学出身者で固めている組織もまだある。

だが、そうした人事のあり方は、明らかに時代遅れなものになりつつあり、例外と言うべきものになってきている。出来レースではない公募での採用はこれまでになく増えているし、今後も減ることはないだろう。

したがって、今の時点で応募する立場からすると、相対的に優れた業績を積み上げることと、公募を出している組織が、建前として公募しているのかどうかを見極める目が必要となるだろう。

多くの大学では、所属する教員の業績は基本的に公開されている。出身大学なども公開されている情報から把握できることが増えた。職階に応じてどの程度の業績を持っているか?ということは、自分の業績と比較して、採用される可能性があるかどうかの一つの指標になるだろう。(ただし、定年間際の勤続年数の長い教員の業績が無いとしてもそれはあまり参考にはならない)特定の大学出身者への偏りが明らかな場合、同窓というハンディをしばき倒せるだけの圧倒的な業績があれば可能性はあるかもしれない。

ただ、先の就活エントリにも書いたことであるが、大学においても相性というものはある。

選考する立場からすると、業績は申し分ないとしても、テニュアで長いお付き合いをする可能性があるとなれば、性格的に今の教員組織にうまく馴染むことができるかどうかというのは大きな判断要素である。また、特に「多様な」学生を抱えている大学であればあるほど、柔軟に学生対応ができるかどうか?国公立大学や大規模な大手私立では縁のないような地道な営業活動に適応できるか?という点は極めて重要である。どんなに優秀な研究者でも、組織にうまく馴染めなければ力を発揮してもらえない。個人的にはあまり良いことであるとは思わないが、組織を同窓で固める理由として、価値観を共有していると言うことはあるだろう。

しかし、だからと言って業績はなくても目を瞑るということにはならない。まともに公募すれば、それほど著名な大学ではなくとも、業績的には甲乙つけ難い、なぜこの人たちが常勤のポストを得られないのか?というような優秀な方々から多数応募が来るのである。その中から、最も組織に馴染めそうな人を採用するということであって、業績が無いにも関わらず採用されるようなことはない。

大学の教員であれ、専業の研究者であれ、プロフェッショナル職である以上、業績のない者には人権は無い世界である。業績の無いものが「ポストを得られないのは差別だ!」と叫ぶのはもちろん自由だが、それは当然のことであって、業績が無いものに居場所など無いのである。

先の採用の話に戻ると、面接までしたにも関わらず、組織との相性の部分で残念ながら不採用となった方々も、その後みなさんそれなりの大学でポストを得ていらっしゃることは注目に値する。したがって結論は一つ。

業績を稼げ!そうすればいずれポストは得られるであろう。

いずれにせよ、テニュアのポストが得られたとしても、継続的に研究業績をあげ続けなければ、もはや生きてはいけない時代である。ポストの有無にかかわらず、業績を稼げないものに未来は無い。

就活に失敗したと泣き叫ぶエゴ

6月1日に解禁となったはずの企業による新卒採用の選考活動。実態としては多くの著名な企業はすでに選考も終了しており、その時点で実質的に内定が解禁される事態となった。

例年このタイミングで就活に失敗したという、当人にとっては深刻であるが、客観的には実におめでたい話がよく聞こえてくる。

確かに、あまり熱心に就職指導などしてくれない著名&大規模な大学に在籍する学生にとっては、就活サイト経由での就活が終わった後は企業とのコンタクトの手段が限られてくるので、「就活オワタ」状態となってしまう面はあるだろう。

その一方で、いわゆる就活サイトでの選考過程では学歴フィルターで門前払いされてしまうような、名前の知られていない大学に所属する学生達にとっては、これからが就活本番である。キャンパス内での在学生向けの企業説明会もこれからまだまだ開催される。就職率が学生の集客に直結する時代であればこそ、こうした大学では就職活動における面倒見の良さが重要となるからである。

また、コスト的に就活サイトへの参加が難しい企業にとっても、いわゆる有名大学卒ではないとは言え、一定の能力を備えた学生というのは、第一次の選考でもれた(すなわち有名大学に在籍はしているが、決め手に欠けるもしくは採用を見送るだけの何らかの理由がある)学生以上に、人事戦略上は重要な存在である。

客観的に見るとそのような状況下において、自分がまだ内定を獲得できていないからといって「就活に失敗した!」「人生終わりだ!」というような発言を平気でしてしまう学生というのは、気の毒だとは思うが、自分自身をしっかりと見つめなおしてもらうしかない。

聞こえのいい嘘ばかりつけるやつが内定をもらって正直者の自分がバカをみた、という主張も理解できないわけではない。
しかし、会社の将来をかけて選考している採用担当者も馬鹿ではない。嘘をつくのが下手だったことだけが内定をもらえなかった理由であるかどうかは疑問が残る。

自殺したくなるほどにアイデンティティが崩壊してしまうのは、自分たちがそれまで見下してバカにしていたはずの、彼らが二流大学とみなしていた大学に通っている学生たちと、一流とされる大学に所属しているのだから一流であるはずの自分が、あろうことか同じスタートラインに立たされている、という現実を受け入れることができないからであろう、という指摘は否定し難いのではないかと思う。

そして、そのような態度は、おそらく本人が気づかないところで、まともな企業には見ぬかれており、採用を見送られる理由となっていてもおかしくはない。

なにしろ、自分が走っていたと信じていたレールからちょっと外れただけで人生が終わったと半狂乱で泣き叫ぶ人間とまさに同じ場所で、さあこれからが本番だ、という人間はいくらでもいるのである。
そうなったらなおさら企業がどちらの人間を採用するかといえば、その答えは明らかであろう。

面接室の中でしか選考されていないと信じている学生も少なくないようであるが、彼らが考えている以上に、あらゆるところが見られているものであり、失敗を生むのは自分自身であるとしか言いようがない。

しかしそれでもやはりなお救いは残されている。
就活は人と企業の出会いである以上、タイミングや相性というものがある。あなたがどんなに優秀であったとしても、企業の要求とマッチしなければ採用されないということは事実としてあり得る。

自分自身を見つめなおし、社会的に評価の高い組織に所属することが自分の評価につながるわけではないと気づく日が、そして、ありのままの自分を必要としてくれる組織で働くことが自分にとって幸せなことなのだと気づく日が、自殺する日より先に来ることを切に願う。